ぼくは川のように話す
グループカウンセリングの題材として使ってみました。
最近吃音者の間で、ちょっと話題になっている絵本「ぼくは川のように話す」をご存じですか?
私は吃音であることと、絵が好きなので、この絵に惹かれて買いました。
カナダのジョーダン・スコットという詩人が吃音者で、自身の体験を元に書いています。
今回は、今日グループカウンセリングでこの本を題材として、
感じたことを話し合ったので、それについて私が感じたことを書いてみます。
なお、絵本の内容に触れる部分も出て来ると思いますので、
内容を事前に知りたくないかたは、先に絵本をお読み頂いたほうがよいと思います。
最初に書いたように、この絵本に惹かれたのは、絵が魅力的だったからです。
シドニー・スミスというカナダの画家なのですが、一枚一枚絵が違うのです。
水彩なのですが、にじみを多く使ったり、ぼかしたり、逆にはっきり描いたり、、。
自分のスタイルを決めつけずに、自由に描いているのが伝わってきて心地よいですね。
また、逆光を描くシーンが多く、光の描き方が印象的です。
吃音を持つ少年のお話です。
さて内容は、子供のころのジョーダン・スコットの話です。
ざっくりと書くと、吃音で言葉がうまく出てこない少年が
学校で笑われて落ち込んでおるところに、お父さんが車で迎えに来て
川を見に行って、少年の心に変化がおこるというような内容です。
ただ、詩人だけあって吃音の表現が詩的です。
例えば、松の木の「ま」は、口のなかで根をはやして、ぼくの舌にからみつく。
カラスの「カ」は、のどの奥に引っかかって出てこない。
というように。
吃音者なら、よく分かる感覚だと思います。
でも、こういう表現をする人は少ないのではないでしょうか。
私のカウンセリングは、どもったときに、吃音の観察をするのですが、
この文章は、とてもよく観察してると思いました。
吃音者は「どもった」としか言わない場合が多いのですが、
観察とは、「どんなことが自分の身体におこって、どんな感じがしたか」が大事です。
それがなぜ吃音の改善につながるかは、こちらをご覧ください。
この文章からは、どんな「感じ」がしたかが、伝わってきませんか?
答えのない話し。
ただ、私が文章を読んで、作者の意図がすぐに分かったかというと、そうではありません。
この絵本には、ナニナニがどうしてどうなったという、起承転結のようなものがないのです。
少なくとも、私には読み取れませんでした。
この絵本では、最後に少年の悩みが解決するわけでも、ましてや吃音が治るわけでもありません。
少年の心に変化がおきるのは、お父さんに
「ほら、川の水を見てみろ。あれが、おまえの話し方だ」
と言われて、川をよく見たら、いろんな流れ方をしていた、
川は、あわだって、うずをまいて、なみをうち、くだけていたわけです。
そこで少年は、川もどもっていることに気が付きます。
最後の文章は、タイトルである「ぼくは川のように話す」です。
ただ、これだけなんですね。
論理的に読もうとすると、よく分からなくなってしまいます。
しかし、言葉を越えた何かを感じ、絵本としても、とても魅力的なので、カウンセリングの題材にしました。
グループカウンセリングで皆さんが感じたこと。
以下、グループカウンセリングで、皆さんの感じたことです。
(皆さんの了解を得て投稿しています。)
もともと障害物のない川ってないよね。障害があるからダメなの?
川にはいろんな流れ方をする、川がお互いに「それは違うだろとは言わない」
川を見ると、場所によって流れ方が違う、でもそれは一つの川。
周りの人の話し方をよく聞くと、実はそんなに流暢ではなかったりする。
他にもたくさんありました。
人それぞれいろんな感じ方があるものですね。
もともと障害物のない川ってないよね。 という発言には、私も目からうろこでした。
確かに、なんの障害物もなく、真っ直ぐに水が流れている川はないですね。
必ず、何かにぶつかって曲がったり、よどんだりしています。
だからダメとはなりませんね。
でも、私達は言葉がよどんだりするとダメとなってします。
不思議ですよね。
吃音は怖いくらいに美しい。
あとがきに、「吃音は怖いくらいに美しい」という文章が出てきます。
吃音という先入観から見ると、とても美しいとは思えないかもしれませんが、
川の流れが波をうっていたら美しいと感じるかもしれませんね。
そして、 あわだって、うずをまいて、なみをうち、くだけて いても
最後にはゆったりと流れていきます。
そういう視点でみていくと、吃音が美しいというのも少し分かるような気がします。
あとがきの最後は、「ぼくはときおり、なんの心配もなくしゃべりたい、
上品な、流暢な、と言えるような、なめらかな話し方であればいいのに、と思います
。でも、そうなったら、そればぼくではありません。ぼくは川のように話すのです。」
で終わります。
吃音者は、よく流暢にはなせる人のようになりたい、うらやましいというふうに
言う人がいます。
勿論、流暢に話したいという気持ちはよくわかります。
でも、その気持ちが強すぎると執着になってしまうんですね。
その気持ちを手放せると、だいぶラクになります。
カウンセリングの目的は「自分が自分になること」です。
もっと言えば、自分はこうでばければいけないから、あるがままの自分を見つけること。
自分にないものを求めるのではなく、持っているものを磨くことです。
彫刻家が一本の木を彫って美しい形を現していくように、
自分の中に、もともとある美しいものを磨いて現していくこと、
これがカウンセリングであり、人生でもあると思っています。
「ぼくは川のように話す」
よかったら、ぜひ読んでみてください。