私はなぜ吃音が改善したのか?

あくまで個人の体験として

先日、吃音の友達とSNSでやりとりしていて、「馬田さんが吃音を改善したことを書いてもいいんじゃないですか?」と言われたので、書いてみます。
今まで、なぜ書かなかったかというと、自分の体験は必ずしも人に当てはまるわけではないのと、改善した人はその方法を人に押し付ける傾向があるからです。
しかし、私がどうしてここまで改善したのか?を話すと、興味を持つ人が多いので、あくまで個人の体験として書きます。

改善のプロセス

まず、私がどこまで改善しているかについてです。
私は幼少期に発吃し、主に難発の吃音です。一番困っていたのは、名前を言えないこと。電話ができないことで、それ以外は何とか言い換えでごまかしてきました。
恥をかいたことは山ほどありますが、最悪だったのは、大学の教育実習のときです。その体験はこのブログ「地獄の教育実習」に書いてあります。
そんな体験もあって、人と話す仕事はなるべく避けるようにしていました。
しかし、現状の吃音症状は、9割くらい治っていると思います。まだ、どもりますが、多分、健常者が聞くと分からない程度だと思います。

小学生の頃は、吃音の教室に毎日通っていました。給食を食べたら午後の授業は受けずに電車に乗って言葉の教室に通うのです。
そして、毎日言語訓練をしていました。抑揚をつけて話す。わざと軽くどもる。などの練習です。
それが効果があったのかどうかは分かりませんが、結局やめてしまいました。

高校生の時は、催眠療法に行きましたが、よくなりませんでした。

それからは、何とかごまかして大学まで行きます。大学は美大だったので、人前でプレゼンすることもなく、吃音を向き合うこともありませんでした。
しかし、社会人になることは憂鬱でした。

25歳のころに、吃音をなんとかしたいと、ご縁があり、あるお寺で修行を始めました。
そこで気づいたのは「自分の心の汚さ」や「自分中心の心」です。自分がいかに人への心遣いが出来ないか、自分さえ良ければと思っているかに気づかされました。
そして鏡を見るように、自分の現実の姿をしっかり見ることができるようになりました。
そこから、人に対して少しづつ心を開くようになりました。
人に対して心を開くのは、心の目を開くことに繋がります。
このあたりから、吃音は少しづつ良くなってきたように思います。
しかし、このプロセスはかなりゆっくりで、25歳から50歳まで続きますが、この間に名前が言えないとか、電話ができない悩みが無くなっていました。
そのお寺での修行は、今でも続いていて、去年、正式に得度受戒し、在家でありながら僧階をいただくまでになりました。

しかし、15年くらい前までは、人前で音読だけはまだまだ苦手で、苦手な言葉で難発が出ていました。それを克服するために「廣瀬カウンセリング」に入会します。
実は、この時は自分がそれなりに改善してきたので、何かしら吃音者の役に立てないかと思い始め、カウンセラーになれないか?とうっすらと思っていました。
廣瀬カウンセリングに入ってからの変容については、他のブログに書いてありますが、基本的には、仏教の修行で学んだこととの共通点は多かったと思います。

私が音読でもどもらなくなってきたのは、廣瀬カウンセリングを修了して1年くらい経ってからなので、52歳のころです。
今でも予期不安はありますし、苦手だなという意識もあります。ただ、かなり前から不安になるのではなく、不安を感じるのは音読の直前です。
また、どもったとしても、それが気になることはありません。
そして、ブロックが出た時に、慌てるのではなく、しっかりと自分の思考や身体感覚を観察できるようになりました。ただ評価や課題を入れずに観察していると、言葉が自然に出てくるようになりました。その結果、ブロックそのものがかなり小さくなりました。

総括すると

以上が、私の吃音改善歴です。
総括すると、私の吃音は「どもってはいけない」「どもったら恥ずかしい」「人からの評価が下がる」ことが気になるからどもっていました。
仏教の修行や、カウンセリングによって、その心が小さくなり、心の器も大きくなったので、相対的に悩みが小さくなり、また、まわりに目を向けるようになったので、吃音に意識が向かなくなったのだと思います。
ただ、私の場合は、かなり改善しましたが、時間もかかっています。目標は、クライアントさんには、時間をあまりかけずに、同じプロセスを体験してもらうことが、
私のカウンセラーとしての役割だと思っています。

実際ACTと出会ってから、社交不安に関しては割と短期間に減らせるようになりました。
吃音症状に関しては、やはり時間がかかりますが、不安が減れば生活の質は上がるし、回避しなくなるので改善のスピードは上がります。

特に、仏教を学び修行したことは、今ではすごくプラスになっています。
ACTは、マインドフルネスを取り入れており、その奥には仏教心理学があります。
また、近年セルフコンパッションが注目されていますが、これも仏教の「慈悲」が土台です。
マインドフルネスやセルフ・コンパッションの本を読むと、何が言いたいのか?がよくわかりますし、
近年、ACTの研究者は、セルフコンパッションをACTにどう取り入れるか?に注目しているようです。

仏教(特に大乗仏教)の聖旨からすると、「自分の吃音が治った」では、慈悲の心とは言えないのです。
まわりの人へも、廻向(幸せを分かちあえたい)と願い、その実践をすることが大事なので、私の人生の「価値」は、そこにあると思っています。

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