吃音から注意をそらすのは有効なのか?

closeup photo of brown and black dog face

久しぶりの投稿です。前回の投稿が8月末でしたので、実に6か月ぶりの投稿になります。
なぜ、間が空いたかというと、決してネタが無くなったわけではなく(笑)忙しかったからです。
10月にカウンセリングルームを借り、引っ越しをしてバタバタしていて、1月はセミナーを行ったので、その準備もありました。
今日はずっと書きたかったけれど、忙しくて書けなかった「注意をそらす」ことについて書いてみます。
結論から言うと、私は反対の立場で、これは専門家の間でも意見が分かれます。
以前、ある専門家と議論になりましたし、SNSでも議論になりました。

注意をそらすとは?

吃音は、「自分の話し方が周りからどう見られているか?」を気にすることが大きな悪化原因です。
しかし、自分の話しかた(吃音)を意識すればするほど自己注目に陥りやすく、吃音が出やすくなります。
そこで、自己注目にならないために注意が分散されるようにタスクを課すことで、吃音が減少することが知られています。
たとえば、私がカウンセリングでよく行う方法で「足の裏に注意を向けながら音読してください」というのがあります。
これは「グラウンディング」という手法ですが、足の裏に注意を向けると、注意が分散されて自分に吃音への注意が減るので、吃音も減ることがあります。
私たちの、脳の「注意資源」は限られており、注意を分散すると効果的に自己注目を減らすことができるのです。
一部の臨床家は、マインドフルネスでこの注意をそらすことを行っています。
マインドフルネスの原型は「ウッパサーナ瞑想」で、これは「観察瞑想」と言われています。

つまり、広く周りの世界を観察することで、自己注目を減らすことを目指すのですね。
私は、これ自体は悪いことではないと思います。

注意をそらす危険性

この「ウッパサーナ瞑想」自体は上座部仏教の瞑想法で、特に危険ではないのですが、一つ落とし穴があります。
それは「マインドフルネスは目的を持ってはいけない」ということです。
つまり、「どもらないためにマインドフルネスを使う」ということは、マインドフルネスの本来の意図から外れてしまうのです。
マインドフルネスはあくまで「智慧」を磨く修行であって、「人からどう見られるか?」の悩みを避けるものではありません。

「悩み」はそこから何に気づくか?が大事で、逃げてはいけません。
マインドフルネスを道具や手段として使うと、手軽に吃音の悩みを軽減できると思いがちです。
しかし、手軽なものにはそれなりの結果しか付いてこないので、効果は一次的なものだと思います。

ウッパサーナ瞑想の立場から

では、本場である「日本ウッパサーナ協会」監修の「ゴエンカ氏のウッパサーナ瞑想入門」(豊かな人生の技法)から
注意をそらすことについての文章を引用してみましょう。

「精神集中はなかなか役に立つ。ふつうなら渇望や嫌悪の思いで反応してしまうところを、そういうものから注意をそらし、心を静めることができるからだ。(中略)しかしながら、このようにして得られた心の平静さは本当の解脱ではない。
たしかに精神集中の修行はとても役に立つが、表面意識にしか作用しないのである。(中略)
一点に注意を集中していると、表面意識にある渇望や嫌悪をうまく処理することができる。しかし、それを取り除くわけにはいかない。かえって、渇望や嫌悪を深層の無意識化のレベルに押し込んでしまう。(中略)それは休火山のようなもので、いずれ大爆発をする。無意識の領域に、心のくせ、心の条件付けがあるかぎり、たえず新芽が吹き、苦が生じる。」
「無意識の領域に、心のくせ、心の条件付けがあるかぎり、たえず新芽が吹き、苦が生じる」

と書いてあります。
つまり、注意をそらすことは表面的にしか作用せず、無意識の領域では変化がないため、常に注意をそらし続ける必要が出てくるのです。
吃音に於いても、短期的には効果があるとは思いますが、長期的には疑問です。

ACTの立場から

次は、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)の立場から書いてみましょう。
ACTの重要な概念として「体験の回避」というものがあります。「体験の回避」とは、ネガティブな感情や思考を避けようとする行動で、心理的問題を助長する要因とされています。ACTでは、体験の回避を悪循環と捉え、その断ち切りを目的としています。
一般的によく言われるのは「アルコール依存症」です。
ネガティブな感情を持った時に、それを避けようとしてお酒を飲むことはよくあることですが、それが行き過ぎると返って心理的問題を悪化させてしまいます。
吃音者でよくあるのは「言い換え」や「話すのをやめる」ことです。これ自体は一概に悪いとは言えないのですが、これが強すぎると吃音の悪化の原因となります。
ACTでは「創造的絶望」といって、「体験の回避」を続けると事態はますまず悪化することにまずは気づいてもらい、新しい方法を試してもらいます。

なぜ問題から逃げるといけないのか?

なぜ、ウッパサーナ瞑想やACTでは、問題から逃げるのをよしとしないのか?それは逃げれば逃げるほどその問題に注意が向くからです。
心理学で有名な「シロクマの実験」というものがあります。
この実験は、Aグループには「シロクマのことを考えておいてください」と、Bグループには「シロクマのことだけは考えないでください」と伝え、時間をおいて、シロクマのことをより頻繁に考えてしまうのはどっちだったでしょうか?と質問した実験です。 答えは意外にも「考えないでください」と伝えたBグループだったのです。
つまり、人間は「これを考えないようにしよう」と思うと、余計に考えてしまう生き物なのです。
吃音も「どもりたくない」と思えば思うほど、どもってしまいますよね。
注意をそらすということは、この「シロクマの実験」からすると、逆に注意が向いてしまうということになりかねません。

まとめ

以上の見解から、私は「吃音から注意をそらす」のは基本的には反対です。
ウッパサーナ瞑想は、世界を広く観察したり、周りに対しての気配りでもあるのですが、自分のことのためだけにウッパサーナ瞑想を行うと、返ってエゴが助長される恐れがあります。
ただ、すべてがダメな訳ではなく、一時的にに吃音を軽くしたいときなどは一つのテクニックとして有効かもしれませんし、「体験の回避」が起こりにくいかたも有効かもしれません。

また、注意をそらす対象も大事だと思います。
吃音から注意をそらしたい=ネガティブな気持ちを遠ざけたい、消してしまいたい、という気持ちは悪循環になる可能性がありますが、その動機が「主体的に興味のあるもの」だったり「自分の人生に価値のあるもの」だったらよいと思います。
この場合、人生が生き生きとしてきて、ネガティブな気持ちがあっても乗り越えられるからです。


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