フォーカシング・身体は答えを知っている

今回はフォーカシングが吃音改善に有効か?について書いてみます。
でも、いきなりフォーカシングと言われても、
心理学やカウンセリングに興味のない方はご存じないでしょうね。

ごく簡単に言うとフォーカシングは、自分自身のこころの声、からだからのメッセージに耳を傾ける心理療法です。

私たちは、まだ言葉にはなっておらず漠然としているけれども、いろいろな気持ちや感覚を感じながら生きています。
そんな漠然とした気持ちや感覚に注意を向け,丁寧に穏やかに感じ、それを言葉などで表現していくことで、自分の気持ちや必要としていることがはっきりとつかめたり、その感覚の自分にとっての意味がわかったり、自分が言いたかったことを納得のいく表現にできたりします。
またその中で、今いる状況への向きあい方について新しい視点が得られたり、自分が一歩先へと進んでいくということも出来てきます。

これは心理学者ユージン・ジェンドリンによって考案された心理療法です。
ジェンドリンはカウンセリングの師であるカールロジャーズと共同で、
心理療法で成果のある人とない人がいるのはなぜかという研究をしていました。
その結果、決定的な要素は、療法ではなくセラピストの技量でもなく、
成功するクライアントの持つ力であるということが分ったそうです。

成功するクライアントは、自ら抱える問題について身体で感じられた体験に触れることができ、
そこから話すことができる能力を持っていたのです。
それはどういう能力かというと、論理的に一貫した話ではなく、
不確かな言葉で自分を表現することです。
例えば、「こんな重さを胸に感じているんです。というか、押さえつけられている感じが近いかな」
という具合に。
ジェンドリンは、この身体で感じられる意味を「フェルトセンス」と呼びました。

そして、このフェルトセンスは我々の気持ちの下の気持ちへの入り口です。

フェルトセンスは、私達の内側の微妙でほとんど気づかれないような領域で見つかります。
日常の意識より深いところにあり、身体と心の接点のようなものです。
日本語には、「胸が熱くなる」とか「胸が締め付けられる」とか「腹立たしい」など、身体、特に内臓に関する言葉が多いですね。
これもフェルトセンスを表したものだと言えます。

フェルトセンスは普段生活ではほとんど気づきません。非常に微妙な感覚だからです。
しかし、友好的にまた、冷静に注意を向けることで見つかります。
そして、それは自分のありのままを知ることや、物事をありのままに見ることにつながります。
つまり、身体の感覚を通して自分のありのままを知ることがフォーカシングと言えます。
ジェンドリンの師である、カールロジャーズは「奇妙な逆説だが、自分のありのままを受け入れたときに、私は変わることができる」と述べました。
フェルトセンスを見つけることは、自分自身を深く知り、今の瞬間の自分の本当の姿をありのままに受け入れ、真の人間的な生き方へ導いてくれる方法です。



私の吃音カウンセリングも、どもっている時の今その瞬間に身体に感じられる何かを
自覚することによって、吃音の改善を目指すものです。
つまり、原理的にはフォーカシングと同じです。

ただし、フェルトセンスを見つけるのは地味で、ある程度の時間とエネルギーが必要な作業です。

私はクライアントさんに「吃音時に身体の感覚を感じようとしたことはありますか?」と
よく聞くのですが、ほぼ100%のかたがありませんと答えます。
勿論、吃音者にそんな発想はありませんし、一般的な吃音の治療にもありません。
また、どもっている時は、頭はパニック状態でとてもそんな余裕はありません。

フェルトセンスを見つけるのに必要なことは「友好的であること」です。
これを吃音にあてはめると、吃音の身体感覚に友好的であること、となりますが、
それがなかなか難しいんですね。
吃音者にとって、どもることは通常否定的な意味しか持たないからです。
ですから、まずは安心してどもれる場所と相手が必要になります。
それが、カウンセリングの場とカウンセラーです。
「友好的」であること、は私の場合、言葉を変えて吃音は自分の一部と言っています。
吃音を異物として排除しようとするのではなく、大切な一部として愛情を持つ。
それが出来ると、フェルトセンスを見つける準備が整うことになります。

フェルトセンスは、内なる野生動物とも言えます。
びっくりさせると逃げ出してしまうウサギや猫のようなもの。
または、醜い野獣のようなものもいます。


しかし、それらを否定するのではなく、ありのままに受け入れたときに
ぶち当たっていた壁を刷新したり、より良くする方法が見つかるのです。
吃音の場合は、どもっている「何か」があるわけですから、
その「何か」を感じ、受け入れたときに、吃音に対する感じ方が変わり
吃音の症状にも変化が表れてきます。

フォーカシングでは、フェルトセンスをまるで人のように扱います。
「こんにちは」とあいさつしたりもします。
これは、自分の中に、そう感じる部分があり、その存在を認めることでもあります。

しっくりくる名前を付け、その隣に座ってみることもします。
そして、フェルトセンスと対話をするのです。

それと同じように、私は吃音は自分の中にいる小さな子供のようなものだと感じています。
子供は正直です。感じの中で生きています。そして納得しないと大人の言うことをききません。
ここ数年「インナーチャイルド・自分の中の満たされない子供」という言葉を聞きますが、吃音はまさしくそうなのかもしれません。

例えば、子供が泣きわめいている時に、無理やり何かをさせようとしたらどうなるでしょうか?
多分さらに泣きわめくでしょう。
そういう時に、子供の気持ちをやさしく聞いてあげたら泣き止むのではないでしょうか?



吃音者は、どもっているときに無理やり声を出そうとしています。
これは、先ほどの話で言えば、泣きわめく子供を無理やり言うことをきかせることに近いと思います。
無理やり声を出さなくても、どもる条件のない時(独り言や歌など)では、言葉はスッと
出てくるのですから、自分の内なる声が納得してくれれば、声は自然に出てきます。
問題はどうやってその状態にもっていくかです。

それはフォーカシングのように、優しく声をかけ、排除するのではなく、一緒にいる感じです。

このフォーカシング的にどもる感覚が分かってくると、
力まなくても、言葉がスッと出て来る感覚が分かるようになります。

大切なのは、無理やり出すのではなく、出て来るのを待つという受動的な態度です。

東洋には、心身一如という考え方があります。
心身における「感じ」を扱うフォーカシングは、まさに心身一如を科学的に説明し
実践する方法であると言えます。
その意味では、禅やヨガ、マインドフルネスにも近いものがあると言えますし、
カウンセリング中に自分の心身に向き合うのは「修行」をしているようなものです。



フォーカシングは「しっくりくる」というニュアンスを大事にします。
例えば、今の自分はどんな感じかな?と身体の感じに触れ、それに「じわじわ」など名前を付けたりします。
そしてその「じわじわ」を自分の中で共鳴させて、しっくりくるかどうか確かめるのです。
もし、なんか違うなと感じたら、別の言葉に変えてみます。
これは、音楽を聴くときに、今はこの曲がしっくりくるな、とか
今はこれを食べるのがしっくりくるという感じと同じだと思います。

私はごく最近気が付いたのですが、どもりそうなときやどもるときは
これから言おうとしている言葉が「しっくりこない感じ」がしていると思っています。

よく吃音は最初の音が出ないと言われますが、苦手な音でも、その一音だけなら
どもらないはずです。
「ありがとう」の「あ」がどもる人も「あ」の一音だけならどもりません。
むしろ、「ありがとう」という言葉の全体の流れ、次の音へのつながり、抑揚、音調などが「しっくりこない」感じがあるのではないかと思うのです。
歌ではどもりません。これは吃音者がどもるのは内的リズムに問題があると言われていて
歌は外部からリズムがあるのでどもらないという理論です。
確かにそれもあるかもしれませんが、私はリズムだけではなく全体の「感じ」が
しっくりくるからでは?と思っています。
同様に、ラップでもどもりませんが、韻を踏んだりすることによって
一種の心地よさが生まれますね。
これが「しっくりくる感じ」になるのではないかとも思います。
俳句や短歌もそうです。
メトロノームを使って、一音ずつ言葉を出せば確かにどもりませんが、
それが言葉として心地よく、しっくりくるかと言えば微妙だと思います。

また、どもる条件は人によって様々ですが、自分の意見や本音を言うときにどもる人もいます。
これもそこに何かがあるわけで、きっと身体のどこかに違和感が出ているはずです。
私の場合は、首から肩にかけて凍ったようにバキバキになります。
吃音にはなりませんが、首が硬くなり動かせなくなる感じがあります。
これもフェルトセンスだと思います。

フェルトセンスの一つの形として大事なものを守っている、という働きがあります。
ちょうど傷が出来たときに、身体がその傷を守るために、その周囲も硬くしてそのあたり触れるのも痛くなるように、傷つきやすいところに触れられそうになるとフェルトセンスは、硬くなったり警報を鳴らしたりします。
例えば、親と話すときによくどもる人がいます。私もそうです。
これは、幼少期に家庭内でどもっていた記憶が潜在意識にあり、親に対するとそれが沸き上がってくるというのはあると思います。
また、その親に対する様々な思いから身を守るために、身体を固くしている、という可能性もあるかもしれません。



その場合、まず大切なのは、守ってい部分に友好的な注意を向けることです。
戦わないことです。(先ほど書いたように、むりやり声をだそうとするのは
フェルトセンスと戦っているのと同じです。)
この守っている部分は、ちゃんとその存在を認められるようになるまで、その役割を果たし続けます。
認めてもらい、話を聴いてもらい、親切に扱われると、この部分はそこから脱して
肯定的な変化を見せ始めます。
つまり、言葉が自然に出てくるようなります。

このフォーカシングを使った吃音改善は、導き手であるカウンセラーにかなりの共感力が求められます。
クライアントが自力でフェルトセンスを見つけるのは容易ではないからです。

しかし、カウンセラーとクライアントが協力関係にあり、
うまくフェルトセンスを見つけることが出来れば、
そこからは自分でフォーカシングを行うことが出来ます。
そうなってくれば、吃音改善だけではなく
人生に大きな変革が訪れるでしょう。

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フォーカシング・身体は答えを知っている” に対して1件のコメントがあります。

  1. 幽玄 より:

    フォーカシングというのは、漠然としている「自分の想い」をじんわりと明確にしていくための手法であると感じました。
    吃音者の抱いている不安や恐怖の正体みたいなものに気付くことが、改善に結びつくのかもしれないですね。

    但し、「どもっている時の今その瞬間に身体に感じられる何かを自覚する」ことは、吃音への意識を強めてしまう可能性もあると思います。どもっている時には、発語するための声帯や口の周りの筋肉、横隔膜周りの筋肉、肩や首周りの筋肉が緊張し、呼吸も浅くなりますし、冷や汗も出ますが、その「どもっている状態」のイメージが強化されてしまうと、発語の必要な場面においてそのイメージがわいてきやすくなり、そのイメージがわくと身体はその通りに反応して、どもる状態が現れてしまいます。

    吃音者は、自分がどもっている時の肉体の様子は十分すぎるくらい把握できていますが、逆に普通に話せているときの肉体に何が起こっているかを認識できていないのだと思います。私は、吃音の改善のポイントは、無意識的に起こる吃音時の肉体的な状態に陥る前に、意識的に(最終的には無意識で)普通に話せているときの状態に転換してやることであり、そのために心と身体の両面からのアプローチが必要だと思っております。

    フォーカシング、何に焦点を当てるかは非常に重要ですが、それについては別のテーマ(吃音とベースとテニス)でコメントさせて戴きます。

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