アドラーと般若心経

西洋の心理学者アドラーと東洋のお経である般若心経。
一見、何も関係なさそうですが、私はとても近いと思っています。
アドラーについては、以前「アドラー心理学と吃音」で書きましたが
今回は別の視点から、般若心経との共通点について書いてみたいと思います。

アドラーによれば私達は同じ世界に住んでいるのではなく
それぞれの人は「自分が意味付けをした世界に生きている」のだそうです。
同じ経験をしてもどう受け止めるか、どう解釈するかは人によって違う
その意味付けによって世界は全く変わってくるということです。
また人は過去のことを気にして悩むことが多いですが
そうではなくて過去の経験にどのような意味を与えるかが大事だと説きます。
それを原因論ではなく目的論と呼びます。

吃音者に置き換えると、過去に嫌なことがあって吃るようになってしまった
だからこれからも吃るに違いないではなく
吃りを改善するという目的の為に自分をどう変えるか?が大事だということでしょうか。

また、ライフスタイルという概念があり
自分が自分のことをどう見ているか(自己概念)
他者を含む世界の現状についてどう思っているか(世界観)
自分および世界についてどんな理想を抱いているか(自己理想)
の三つですが、
これは、吃りである自分をどう思っているのか
他者は自分の吃りに対してどう思っているのか
自分は吃りのない自分が理想なのか
等と置き換えることが出来ますね。

そしてアードラーはこの3つを、今この瞬間に変えられると言っています。

ではなかなか変えられないのは何故か?
それは無意識のうちに「変えない決心をしている」からです。
そして、変える為に必要なもの、それは勇気です。



この感覚はよくわかります。
今の自分を変えないといけないと分かっているのに、変えるのが怖いんですね。
その辺については吃音への意味付けに書いてあるので、お読みください。

般若心経は超メジャーなお経で私も暗記している程ですが
細かい意味は最近知りました。
(本当は意味を知ることよりも唱えることが大事なのですが)
一言で言うと固定概念をリセットして物事を正しく見ていきましょうというお経です。
私達は特定の概念をつくりその中で世界を見ているのですが
般若心経は、そうではなく、本質は「空」だと言います。
(ちなみに空は何もないではなく、見えないけれど何か絶対的な法測のようなものという意味です。)

私達が持つ特定の概念には、どこか必ず間違いがあり
概念にとらわれた生活をしていると、他人が決めた概念に操られて間違った判断や行動をとることもあります。
だから、概念にとらわれない自分を見つけ出していく必要があるのですね。

ここで思い出したのは現代美術家マルセル・デュシャンの泉という作品です。
これは便器に泉という名前を付けて出品し大変な論議がおきました。

便器なぞを美術館に置くべきではない、芸術とはもっと品格のあるものだ。
便器なぞどこにでもあるではないか。等々。
固定概念を頭から否定した作品となっています。
これももっと自由に物事を見るべきだというアートの考えですね。

般若心経で面白いのは「空」を理解することで瞬間的に物の見方を180度転換出来ると
言っていることです。
これもアドラーがライフスタイルを瞬間に変えられると言っているのと共通しています。

また、般若心経では「人の為に生きるという生き方も苦しみを消す一つの道」だと言います。
これも価値観を変換することです。

アドラーも「共同体感覚」という概念で人生の意味は全体への貢献であると言っています。

西洋の心理学者アドラーと、東洋の仏教の教えに共通点があるのは、興味深いですね。
しかし、洋の東西問わず真理は一つなのでとても納得できるような気がします。

まとめると
私たちは独自に意味付けをしたり、概念を持って世界を見ている。
だから、世界を正しく見ていない。
しかし、それは瞬間的に変えられる。
自分のエゴではなく、周りや世界への思いやりは、苦しみを消す。
となると思います。

これらは、吃音に限らず、人としていかに生きるか?という意味でも、とても大切な示唆があると思います。

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