マインドフルネス、あるがまま、そして森田療法 について

先日ネットで検索していたら、マインドフルネスや森田療法と認知行動療法の違いについて私が思っていたことをズバリご指摘していただいていた講演があったので、それについて書いてみます。
ちなみに、私の考え方のコアに近いので、ちょっと分かりずらいかもしれません。(笑)

森田療法研究所所長・北西クリニック院長 北西憲二先生の講演からです。
https://www.p.u-tokyo.ac.jp/soudan/070nenpo/pdfs/2015_kitanishi.pdf

主なテーマは、仏教または東洋的思想と日本で生まれた森田療法はどういう関係にあるのかということ。
マインドフルネスが出てきて、これは西洋ではいろいろと論議されて、一方では受け入れられ、一方で鋭い批判にさらされてるように思うが、それはどういうことなのかということ。
森田療法は、もともと禅と深い関係があるとよくいわれるが、その辺のことについてもお話されています。
「カッコ」内は講演から抜粋です。

「物事には二つの認識の違いがある、それは自然的思考と科学的思考の違いです。

自然的思考とは、自然と一体となり、対象そのもの中に入っていく。自然の一部としての人間。
原始仏教、老荘思想、禅、仏教、上座部仏教、森田療法、内観療法、マインドフルネス。

科学的思考とは、自然を対象化する考え方です。操作対象としての自然。自然科学、確立した自己。思想(言語)の優位。
精神分析、認知行動療法。

よく見れば、薺(なずな)花咲く垣根かな。

これは芭蕉が (なずな╱道ばたに生える野草)という花を俳句にしたものです。
花を知るには対象そのものへ入っていくことがとても重要なんだという考え方です。
主観的・体験的なものが重視され、そこでは私たちの心や体、自然というのは分かちがたく、一体なものという認識がなされているのです。
そこからわれわれの知恵が生まれてくるという考え方があります。

それに対して対極的な認識法は、科学的な思考といわれるもので、同じ花を見るのにも、花を取り出し、花を引っこ抜
き、それを分解し、そして花とはこういうものなんだ、ということを分かっていく、つまり自然を対象化する考え方です。
これは、客観的・分析的ということになるし、意識とか自我の身体・自然に対する優位という考え方です。
自然から距離を取り、自然と人間はお互いに共通し合うものは持ち合わせていないという認識がここから生まれてきます。
こういうところから、コンピューターを始め、現代の科学が発達しましたし、精神分析と認知行動療法というのもこの文脈の中から理解できるだろうと思います。」



フロイトの精神分析は、医者と患者は自他対立的で、医者は治す人、患者は治療される人と区別されます。
認知行動療法については、論理的思考で対象を分析するアプローチですね。
一方、カウンセリングの創始者カールロジャーズは、この治療する人される人の垣根をなくして、平等なんだと唱えました。
受容と共感という、対立的ではく一体感を、また論理的思考でなく、言葉に出来ない曖昧なものを重視しました。


「マインドフルネスが、なぜ今ヨーロッパ、または西洋の社会に出てきたのか。
おそらくこの科学的な思考が行き詰まったに違いない。それを埋めるものとして、注目されるようになったということが、私の印象です。
マインドフルネスは、仏教と精神医学・心理学との出会いと関係しますが、気づきというのが本来の意味です。
ヴィパッサナー瞑想という最も古い瞑想法の一つで、呼吸に気づいて、そこに入り込むので、意識と身体をつなぐものと理解できると思うんです。
そうすると、先ほどの科学、万能の社会というわれわれの生活や意識に、身体・生命・自然を打ち込んでいく考え方こそが、これからの時代に必要とされていると思います。」

なぜ、今マインドフルネスなのか?それも西洋で注目されてきたのか?ですが、私も現代社会が物質中心主義、科学、合理的思考の限界を感じてきたのではないかなと思います。
同じように、映画の「スターウォーズ」のジュダイやフォースに東洋の神秘的な要素があることや、禅やヨガが人気があることも
関係しているのではないでしょうか。


「気づきとは、ありのままに観察することです。ありのままに観察するとは、物事を歪めることなく、あるがままに気づくと言うことです。
あるがままとは無常・苦・無我の真理です、とスリランカの僧侶、バンテ・H・グナラタナは言っています。
無我とは自我をなくす、自己がないということです。つまりマインドフルネスと無我とは深く関係しています。
ここがマインドフルネスを論じていく場合のポイントになります。」


自我をなくす、、これはマインドフルネスでほとんど論じられていない印象です。
私達は独自のフィルターで世界を認識しています。
大雑把に言うと、認知行動療法のスキーマ(自動思考)もそうだし、アドラー心理学のベイシックミステイクスも、NLPもそうです。
そして、そのフィルターの根源は「私」です。
ありのままを観察するマインドフルネスは、この「私」をなるべく小さくして、フィルターをなくしていく道です。

吃音も、私は心理的な側面から言えば「我のとらわれ」だと考えていますので、「我」を小さくしていくマインドフルネスは改善に有効だと思っています。


「第三の世代の行動療法が出てきて、マインドフルネスは2つの側面があると言われます。
一つは、マインドフルネスの持つ情動調整作用に焦点を当てたものです。
いってみれば症状や苦悩の軽減に焦点が当たってくるわけです。したがって、これは部分的、局在的です。
現代のアメリカではマインドフルネスが科学の分析対象となり、脳波の研究、脳の画像研究が行われ、
脳の機能との関連がいろいろとレポートされ、またさまざまな心理バッテリを用いてその状態を測ろうとします。
それ自体はマインドフルネスのある側面を明確にするということで反対ではないんですが、そこには最も重要な視点が欠けている。
それは何かというと、マインドフルネスという一つの大きな現象を、情動調整として、脳の機能に局在化・一面化させている。
そこには、人間全体を見るダイナミズムというのが欠けている、というのが私の印象です。」

この意見には私も同意します。
現在の吃音の臨床に用いられているマインドフルネスも、局在的だと思います。

次に、森田療法の特徴として、

「東洋の精神療法(森田療法)の重要なポイントは、恐怖や情動をコントロールしない。
ありのままに持ちながら目の前のことに入り込むこと、
そしてその人の持つ本来の力を引き出すことで、その葛藤を解決する。つまり、葛藤そのものに焦点を当てない。
不問に付すわけです。葛藤を何とかするわけではない。
葛藤と全く関係ない、目の前の必要なこと、素直な○○したい気持ちにのって作業に入り込むことこそが
最も本質的な解決だと考えるわけです。」

「森田療法でいう“はからい”、自分であれこれ不安を操作しようとする、逃げようとすることをあきらめたときに、本来の姿が出てくる。
自分の不安をあれこれコントロールするのをやめ、もうそのまま感じるしかないと思ったとき、
本来の欲求が見えてくるというダイナミズムが、実は浄土真宗、禅、
そして東洋の思想の中核としてあるということをお伝えしたかったのです。」

重度の吃音者で、改善を諦めた時に治った人がいたそうです。
ここに書いてある通り、もうそのまま感じるしかない、という悟りだったのかもしれませんね。
はからいや、考えるのをやめた時に、本当の自分の姿を見るのだろうと思います。

「森田療法の自己理解から申しますと、われわれが悩んでいるときは、自己のあり方が頭でっかちになっていると考えます。
この頭でっかちなものというのは、肥大した自己意識であり、自己愛であり、強迫的なコントロール欲求であったりするわけです。」

「マインドフルネスがマインドフルネスとして機能するには、ただ呼吸をして、それに気づき、あるいはただ瞑想するだけでなく、
自分の意識、自己意識をどうしたら減らしていけるか、削れるか、そして自分の身体、内的なものをどうしたら膨らませていけるか、
感じ取っていけるか、育てていけるか、が重要になります。」

ここで言われているのは、思考=頭で考えている、自我(苦しみの元)  感じ取る=身体の感覚、内的な感情、情緒。
かと思います。
これは、フォーカシングにも近い作業です。

「マインドフルネスは気づき(サティ)であるといわれます。それは、余計なものを全て取り去ったシンプルな認識だといわれます。
私たちが何かを感じたとき、不安であり、抑うつであり、さまざまな苦悩であっても、それに何も付け加えない、
何も引くことをしないことが重要という指摘がなされます。
それで、呼吸に注意を払い、無常や苦のあり方に少しずつ気づくことができるといわれます。

次に、諦め(あきらめ)ることの重要性について、

「岩波古語辞典で、あきらめ(明らめ)を見ますと、次のような意味になります。
1. (心の)曇りを無くさせる
2. 明瞭に細かな所までよく見る
3. (理にしたがって)はっきり認識する
4. 事の筋、事情を明瞭に知らせる
5. 片をつける
6. 断念する
あきらめには、1)~6)からの意味が含まれます。そして「あるがまま」を理解するには、1)「心の曇りを無くさせる」がまず重要で、私たちの経験をそのままを見ることです。
そして、これができるには、6番目の「断念する」ということが重要なプロセスとなります。
マインドフルネスに、自己意識を削る、またあきらめる、断念する、というダイナミックな動きが、どういうふうに理解されているのか、
組み込まれているかが、興味あるところです。」

1)心の曇りを無くさせる,がまず重要で、私たちの経験をそのままを見ること。これが大事だし難しいんですね。
それはさきほど言った「我」のこだわり、先入観、思い込みがあるとあるがままを感じ取れないんですね。
この1~6までは、まさしくマインドフルネスですね。

「あるがままに至る道を簡単に説明すると、かくあるべし、という思考を、削り取る必要があります。
私たちは小さいうちから、こうしなくてはならない、こうあるべきだと刷り込まれてきて、そこに縛られています。
それを断念する、諦めることです。それが私たちの心身の不快な感情反応をありのままに受け入れることを可能とします。
それと共に、回避していた生活世界に踏み出し、そこで自分の生きる欲望とつながった自在な行動をつかんでいく必要があります。
2つの軸が「あるがまま」に至る道ですし、これには長く時間がかかるものだと私自身は考えます。」

これは、カウンセリングで行っていることそのままです。

「最後のまとめに入ります。東洋的な思想と森田療法の関連はよくいわれます。
森田自身は、そうではなく普遍的なものと考えていたと思います。
しかしマインドフルネスという概念自体が、東洋的思想が普遍的であることを示していると思います。
今の時代に森田がいたならば、意を強くしたに違いないと思います。
マインドフルネスという概念枠ができたことは、大きな意味を持つでしょう。
それが心理学や精神医学、精神療法と宗教、さらには西洋と東洋という枠組みをつなぐような役割を果たせるかもしれません。
それには私たちがこのような問題意識を持ち、議論を重ねることが私たちの臨床を豊かにするものと思います。」

自然的思考と科学的思考のどちらがよいのか?ではないと思います。
吃音に於いては、科学的思考=主に認知行動療法だと思います。
確かに認知行動療法は有効ですが、自然的思考からも選択肢が欲しいところですね。
これはどちらも大事で、バランスが必要なんだと思います。
いずれ科学的思考だけでは限界が来るのではないでしょうか?
これからは、もっと自然的思考の本質が理解される必要があると思っています。

ブログランキングの応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 吃音症・言語障害へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です