「我慢」と「耐える」の違い

仏教からとらえると、我慢と耐えるは全く違う

今回は「我慢」と「耐える」の違いについて書いてみたいと思います。
これは、ほとんど同じ意味で使われていますね。
普通はそれで問題ないのですが、仏教用語として使う我慢と耐えるは大きく違いますし、メンタルの健康にも大きく関わってきます。

我満は字の如く「我」が満たされなくて不満な心
我が満つる心と言えましょうか。
我満は我慢とも書きますね。この場合「我」が「慢心」している状態。
つまり耐えているようでその奥で心がおごり高ぶっている状態です。
具体的には目の前の事に不満なんだけど、その場しのぎでしょうがなく乗り切る感じでしょうか。
あくまで自分優先です。
この我慢は自分の心に無理をしているため、縮んだバネのように負のエネルギーが溜まっていき、ある日爆発します。

では耐えるとはなんでしょうか?
苦しさ悲しさなどに屈せずにこらえる。
自分のあるべき姿が見えていて試練があっても耐える。というような意味です。
これは苦しみに主体的に関わっていき、自分を成長させる前向きな意味付けをしていくことですね。
例えば自分の悲しみに耐えていけば同じ悲しみを持った人に共感し相手の悲しみを和らげることが出来ますね。

「耐える」とは、忍辱波羅蜜

仏教(大乗仏教)には「六波羅蜜」という修行があります。
その中の「忍辱波羅蜜」(にんにくはらみつ)は、この耐えるという意味に近いです。
これは人を許すことも含まれます。
また褒められても有頂天にならず、嫌なことをされてもすぐにキレないという事。
勿論修行は長く厳しいですから耐えることは重要ですよね。
でもこれを身に付ければストレスはかなりなくなります。
また世界が平和になりますね。
ちなみに、波羅蜜とは歓んで行うことの意味です。
忍辱波羅蜜とは、歓んで自分から進んで耐えるという意味です。

人生の価値の明確化が、道を分ける

この我慢と耐えるの一番の違いは、自分の人生の価値が見えているかいないかの違いではないでしょうか。
どもって笑われて恥ずかしい思いをしても、自分のあるべき姿が見えていれば、嘲笑も忍辱として自分を磨く糧としていけるかもしれません。
私が思うに、一流と言われている人は一度は笑われたり恥ずかしい思いをしたり、悪口を言われたことがあるのではないかと思います。
耐える経験を通して、周りに寛容な心を養うのではないかと思います。

吃音の場合、恥ずかしい思いをしている状態は、自分自身に不満なので、それは我慢している状態かもしれません。
でも、価値が見えている人は、その恥ずかしさを糧として、心の器を大きくすることが出来るのではないでしょうか。
カウンセリングとは、問題をなくすものではなく、問題を抱えながらもより良く生きていく大きな器をつくるためのものです。

さて私たちは「我満」をしているのか?「耐えて」いるのか?
ちなみに、食材の「ニンニク」の語源は、「忍辱」だと言われています。
(緒説あり)

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