親鸞の教えから考える吃音改善

同治と対治

親鸞とは浄土真宗の開祖です。
そして、浄土真宗の教えに「同治と対治」というものがあります。
私は、家が浄土真宗であったにもかかわらず、教義にはあまり詳しくないのですが、
これはカウンセリングに近い考え方なので書いてみます。

具体的には、元気のない人に「元気を出せ」とアドバイスするのが、対治。
相手を否定せず、同化して辛さを分かち合い、心の重さをおろしてあげるのが同治です。

「対治」には否定するニュアンスがあります。
「同治」は現状の肯定から始まります。

カウンセリングは、「同治」の考え方ですね。
「対治」が必要な時もありますが、ほぼ「同治」の方がいい結果になります。

浄土真宗の僧侶、東井義雄の著書『いのちの教え』の中に
次のようなお話があります。

小学校に入学して以来ずっと登校拒否が続いていた少年に対して、
担任の先生方が「我こそは、彼の登校拒否を解決して見せるぞ」と色々手を尽くし、「元気を出せ」と熱心に励ましたのですが、とうとう六年生になってしまいました。
六年生の担任は、学校では一番若くて、また気の弱い一面を持ったY先生という方です。
Y先生はそれまでの担任の先生のように「頑張れ、もっと元気を出せ」とは言いませんでした。
どう言ったかというと、「実は先生も気の弱い男で、他の人が自分の思い通りにやってのけるのを見ると、うらやましくなってしまう。僕らは自分のことよりも、まず相手の気持ちを考えてしまう。が、考えてみると、これは、悪いことではなくて、人間として一番大切なことではないだろうか。お互いに、僕らのこの気の弱さ、もっと大切にし合おうではないか」と呼びかけたのです。
Y先生の担任になってから、登校拒否はぴたりとやみました。 以上のようなお話です。

このY先生の対応が「同治」です
一方、それまでの担任の先生たちは「対治」だったのです。

完全なる自覚

ちなみに、この考え方を自分と自分の内面との対話に向けたとしたらどうでしょうか?

廣瀬努先生の吃音カウンセリングの理論に「完全なる自覚」というものがあります。
偶然にも、これも登校拒否の話です。

「両親や教師が要求する自覚とは、皆が学校に行っているのに、自分だけ行けないのはダメだ、とか、学校に行けるように頑張る。ということですが、完全なる自覚とは、自分は学校に行けないんだというように、評価も課題も課さないあるがままの自分の自覚すること。」とあります。
つまり、同治と対治と同じように、現状を否定するか肯定するかですね。

皆さんは、しんどくて元気がないときに「もっと頑張れ」と言われたらどうでしょうか?
吃音者は皆、すでに頑張っているのです。
これ以上何を頑張ればいいのでしょうか?

頑張るの語源は我を張る。

ある病気でお亡くなりになった人が「いやー、頑張れと励まされるのが一番つらいよ。その度に、病気のほうが頑張り出してね。」と、生前に漏らしていたということです。

実は、ここに吃音を改善させるヒントがあります。
私達は自分自身に、どこかで「頑張らなければいけない」と言い聞かせているところがあるからです。
この亡くなったかたの話を借りると「頑張れと励ますと、吃音が頑張りだしてね」となりませんか?

つまり、、、、

自分自身に対治を行うと、吃音が頑張りだすということです。

ちなみに、頑張るの語源は、我を張るだそうです。
私達が「我を張る」から、吃音が頑張ってしまうのかもしれませんね。
具体的に「我を張る」とは、人と自分を比べて優秀だと思われたい、
人より自分が大事、周りの評価を気にする、自分に課題を与える、などです。

この「我を張る」の反対が「思いやり」「愛情」「慈悲」です。
特に「慈悲」は仏教語ですが、慈悲の「悲」という字には、「同化」することの意味がこめられているように思われます。
「共に悲しむ」、ひとの苦痛を自分の苦痛のように感じ、ひとの悲しみを自分の悲しみのように悲しむ。
何を言わなくても、ひとの悲しみを二人が背負うと、その分だけだれでも楽になるはずです。
そして、あるがままの自分を自覚出来、前を向くことが出来るのだと思います。

最近は吃音の臨床で「セルフ・コンパッション」が行われていますが、これは仏教の「慈悲の瞑想」を基盤としています。

ありのままでよい。

親鸞聖人の教えは、頑張ることをやめる、無理をしない、楽に生きる、そのままでよい、
凡夫という者は、悲しく、無様で、弱い者だ、それでよいのだとおっしゃっている。
悲しかったら悲しんだらよい、嬉しかったら喜んだらよいのです。
もし仏さまが私たちに、「頑張ったら救ってあげる」と言われたら、到底私たちは救われないでしょう。
仏さまは、少しの条件や注文もつけず、「頑張ったら救う」といわず、「どんなことがあっても、そのままのあなたをそのまま救うよ」とあたたかくよびかけています。
というのが親鸞聖人の教えです。

そして、それはそのままカウンセリングの「doではなくbe」(何かが出来たから尊いのではなく、その人の存在そのものが尊い)の考え方に当てはまります。

吃音の改善には、同治の心を身に着けること。

私のカウンセリング理論からすると、どもった時になんとか声をだそうと頑張るのは、対治です。
多分、心の中は対治になっていると思います。
では、同治はというと、それは吃音の観察(マインドフルネス)です。
それも対立感でなく、一体感で感じることです。
ただ、それ出来るためには、普段から物事に対して一体感が持てるトレーニングをする必要があり、自分一人で体験するのは難しいです。
だからカウンセリングやマインドフルネスのトレーニングが必要なのです。

カミングアウトすると同治に近づく。

また、同治は「このままでよい」という感じ方ですが、吃音もカミングアウト出来た人は
改善する傾向あります。少なくとも悩みは減ります。
これは、カミングアウトすることにより「これが自分なんだ」と思えるようになるため
吃音に対する否定的な考え方が減ってくるからです。
また、言友会や日本吃音協会などの吃音者の団体に参加することは
同じ仲間と触れ合うことにより、「このままでよい」と思えるようになりますから
吃音の改善や受容に有効です。

ただ、この同治を「その人の身になって親切に対応すること」と解釈するのは
、ちょっと違います。。

どもる自分を許さない気持ち。

ある神経性食欲不振症の子どもの治療においての場合です。主治医も周囲の人々すべてが患者のことを思い、その相手のことを自分のことのように本当に親身になって寄り添いました。そして、その子どもが食べるようになるための努力を惜しみませんでした。

しかし、それは同治ではありません。というのも、これら周囲の人たちの努力は、結局、「食べないことは許さない」という一点において、この子と対立していたのです。つまり、対治だったのです。

対治は否定から出発しています。悪を否定する、病気を否定する、不自由を悪と考え、それを叩きつぶし、切除することで善を回復しようとします。

この主治医の治療は間違っていないと思います、医学の立場からすれば、、、。
しかし、これを吃音の改善にあてはめるとどうでしょうか?

吃音の改善において、主治医も言語聴覚士もカウンセラーも、周囲の人々すべてが吃音者のことを思い、その相手のことを自分のことのように本当に親身になって寄り添いました。そして、流暢に話せるようになるための努力を惜しみませんでした。

しかし、それは同治ではありません。これら周囲の人たちの努力は、結局、「どもることは許さない」という一点において、吃音者と対立していたのです。つまり、対治だったのです。
さらに吃音の場合、吃音者そのものが自分を許さない立場にまわります。

皆さんはいかがでしょうか?

これは、私も含めて吃音に関わるすべての人が深く考えるべき問題だ思います。

私は、単なる言語訓練を勧めないのも、それには吃音を許さない気持ちが根底にあると思うからです。
(ないと断言できる人はやられたらいいと思いますし、心理的なサポートを受けながらや、自分で勉強をして心理学を身に着けるならよいと思います。)

ありのままに受け入れると、人は変わる。

ここまで読んで、「分かったけど、それだと結局改善しないんじゃないの?」
と思われるかもしれませんね。
それに対しては、いつも引用しているカールロジャーズの言葉があります。


「奇妙な逆説だが、自分をありのままに受け入れたときに、私は変わることが出来た。」


先ほどの不登校の児童が登校出来るようになったのも、教師が同治をしてくれて
自分を受け入れることが出来たので、変わることが出来たのだと思います。
吃音の場合も同じです。

同治と対治、いかがでしたでしょうか?
私達が、周りに対してどうなのか?自分に対してどうなのか?
を自覚していくことも、吃音の改善や、生きていくことに大切なことのように思います。

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