ACTと言語訓練を組み合わせる可能性について。

今回は少し専門的です。2月の中旬にこのような論文が出されました。
Evaluation of an Integrated Fluency and Acceptance and Commitment Therapy Intervention for Adolescents and Adults Who Stutter
私は英語が苦手なのですが、簡単に訳すと「成人の吃音者に,話し方の指導とアクセプタンス&コミットメント・セラピーを組み合わせた介入をしたら、吃音が減ったことと、自己効力感も上がった」という論文です。
(実は、先月ネットで読んだ時は全文読めたのですが、あとでゆっくり読もうと思い、昨日開いてみたら有料でないと見られなくなっていました。涙)
とはいえ、抄録(と言っていいのかな?)は読むことが出来、大まかな内容は覚えているので、それについて私の考えを書いてみます。
まず、「言語訓練」とは、流暢性形成法や吃音緩和法など「直接法」と言われるどもりにくい発話への指導です。
主に、言語聴覚士が行います。
アクセプタンス&コミットメント・セラピー(以下ACT)とは、このブログをお読みくださっているかたは、よくご存じだと思いますが、マインドフルネスのトレーニングを組み込んだ第三世代の認知行動療法です。
心理療法なので、これは「間接法」と言います。
(ちなみに、ACTは吃音を治すためのものではなく、本来は「苦しみをしなやかに受け止めて有意義な人生を生きる」のが目的です。)
ところで、抄録の目的に「この障害の隠れた心理社会的側面にはあまり重点が置かれていませんでした。」と書かれています。
これは、私もとても感じていたことで、吃音の臨床の歴史は、主に発話訓練に重点が置かれていて、心理面の研究は遅れていると思います。
私からすると、言語訓練だけで治そうとするのは正直もどかしいものがありました。
なぜかというと、ほとんどの吃音者は、独り言ではどもらない。つまり発話の機能に問題はないワケです。
だから「問題がないのに、なんでわざわざ訓練するの?」と思っていました。例えば、野球の練習は、今出来ていないことを出来るようにするためなので意味がありますが、吃音者は一人なら問題なくしゃべれるので、練習する必要はない。という考え方です。(ただ、最近の研究で、吃音者は脳に異常があり、信号の伝達が発話の筋肉の動きとうまくタイミングが合わないこと、また正常に話しているときでも、異常があり、呼吸関係の制御が遅れると非流暢性が生じることが分かっています。)
独り言と人前での違いは、自分の吃音を人に聞かれたくない、隠そうとするところから生まれるので、それは心理の問題です。だから心理が重要だし、私もずっと心理カウンセリングで臨床をしてきました。
ただ、成人の場合、長く吃音者として生きてきたので、実際に独り言モードにするのはなかなか難しいのも事実です。カウンセリングだけで結果を出そうとすると、人によってはものすごく時間がかかります。
そこで、私はカウンセリング(間接法)と、発話の感覚をマインドフルネスをしながら意識する(少し直接法的な)方法を行っています。
これは他では行われていませんが、偶然にもこの論文に書かれていることと近いことをしているなと思いました。
(詳しくはzoomで5月に行われる全米吃音フェスティバルにて発表する予定です。是非ともご覧ください。)

また、医療の現場では「吃音から注意をそらす」方法も、行われています。
吃音のある成人に対する集団認知行動療法プログラムの開発
これもマインドフルネスを吃音の臨床に活かした一つの方法です。

さて、タイトルの「ACTと言語訓練を組み合わせる可能性について」ですが、単に言語訓練をするだけだと効果は薄いことが分かっています。
なぜなら、言語聴覚士の前ではうまく出来るが、日常生活で応用するのは難しいからです。
理由は、心理面に介入していないからですね。(もちろん心理に詳しい言語聴覚士もいらっしゃり、認知行動療法などを行っています。)
そこでACTの出番です。少し難しいのですが、ACTには6つのコアプロセスというものがあります。

コグラボより

左側は、心が硬直化し、苦しみを追いやろうと格闘して、人生を前に進めていない状態。
右側が、心が目覚めて、苦しみをしなやかに受け止め、人生を前に進めるために、必要な行動を起こしている状態です。
ACTは苦しみをなくすのではなく、避けるのでもなく、しなやかに受け止めることが特徴です。

ACTでは、この6つのコアプロセスを左から右の状態にするように試みます。
これ自体は、吃音と直接関係ありませんが、言語訓練と組み合わせると効果が高いのはなぜか?という点が重要です。
言語訓練は、吃音を単なる言葉の流暢性の問題だとしています。だから、訓練することによって、正しい発話を会得していくことが目標です。
ところが、ACTでいう「心がしなやかでなく、苦しみを追いやろうと格闘して、人生を前に進めていない状態」のまま言語訓練を行った場合、
「早く普通にしゃべれるようになりたいけど、多分出来ないだろう」「今までやってきたけどだめだった」「これだけやったのにだめだった」という考えが頭に浮かんできて、元に戻ってしまう危険性が大きいと思います。人は過去の経験にこだわるからです。
それに対して、ACTを実践した場合、「価値」と「コミットされた行為」のプロセスを行うと、人生が生き生きとしてくる実感があるので、全体のなかで、吃音はそれほど大きな問題ではなくなります。
ACTは行動療法なので、その人の行動を重視しますが、その行動が「体験の回避」(コアプロセス左側左上・嫌な思考や感情を避けようとすること)によって動機づけられているときより、「価値」によって動機づけられているときの方が、効果が大きくなることが分かっています。(ラスハリス・よくわかるACT)
例えば、「体験の回避」によって動機づけられた言語訓練だと、「どもりたくない」という気持ちが強いため、効果も上がらないばかりか、より苦しみが増す可能性もあります。吃音はどもりたくないという気持ちが強いほどどもるからです。つまり、アクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態です。
しかし「価値」を明確化すると、人生にとっての「価値」に近づく感覚があるため、訓練の効果が高くなります。「生きる意欲」が高まるため、「話す意欲」も増すということです。
みなさんも、好きなことや本当に言いたいことを話すときは、吃音はさほど気にならないのではないでしょうか。
そして話すチャレンジをたくさん行うことにより、流暢に話せる経験が多く積まれて、自信がついてきます。
例えば、野球がうまくなりたいという目標があり、それに沿った練習をすれば、うまくなる実感があり、きつい練習も有意義なものになります。
目的がなく、ただきつい練習をするのはつらいものだし、続けられません。効果も薄いと思います。
野球が下手だと言われるのが嫌だから練習するのと、純粋にうまくなって楽しみたいから練習するのでは、どちらが良いでしょう?
やはり、人生には生きがいとか目標が必要で、吃音を単なる言葉の障害として捉えるのは無理があると考えます。(これはあくまで成人の吃音の場合です。)

「価値」のプロセスで大事なのは「ゴールの設定」です。何を目標にするか?ですね。
もし「価値」を「吃音を治すこと」に設定した場合、まずうまくいきません。
この場合、多分に「吃音を治すこと」は「人に認められたいこと」や「自分の評価を下げたくない」ことに繋がっている場合が多いからです。
人に認められたくて人生を生きるなんて、つまらない人生ではないですか?

吃音を治すのは、「ゴール」ではなく「ボーナス」(副産物)と考えます。
例えば、野球の大谷翔平は、MVPを取るために野球をしているでしょうか?違いますよね。
彼は、野球を楽しむために野球をしています。MVPは副産物ですね。
吃音も、少しでも生きていくのが楽しい、話すのが楽しいと思えることが、何よりも大切なのです。
テクニックは二の次です。

次に、もう一つの可能性について書いてみます。
それは、言語訓練とは関係ないですが、ACTがマインドフルネスを用いていることです。
マインドフルネスとは「今、ここの現実を感じ、良し悪しの判断をせず、ただ感じること」です。
私は、この原理を吃音症状の観察に用いていますが、マインドフルネスを行うと「思考」よりも「感覚」が優位になります。
「思考」は予期不安や後悔の反芻に繋がりメンタルが悪化します。「感覚」が優位だと、「思考」は弱くなります。
つまり、予期不安や後悔も少なくなるということです。
例えば、(これはカウンセリングで時々体験してもらいますが)足の裏の感覚に注意を向けながら音読するとどもりにくくなります。
これは、注意が分割するからで、吃音に向ける注意が少なくなるからです。

まとめると、ACTと言語訓練を組み合わせると、吃音が改善する可能性が高い。
理由は、「価値」に動機づけられた言語訓練、生きる意欲、話す意欲が高くなり、回避行動が減る。マインドフルネスにより、身体感覚に敏感になる。
が挙げられると思います。
ちなみに、日本の吃音の臨床で、もっとACTが行われるとよいと思いますが、元々心理の専門家が少ないのと、ACTを指導するにはセラピスト自らがマインドフルネスを深く習得している必要があり、なかなか広まらないのだと思います。
早くACTが広まるとよいですね。

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