子供の心になる重要性。

UnsplashBen Whiteが撮影した写真
最近、マインドフルネスを用いている、ある吃音研究の大先生とメールで意見交換させていただいているのですが、お互いに心理の大切さは確認出来ても、マインドフルネスをの用い方には大きな開きがあり、改めて、医療とカウンセリングの違いを感じています。つまり症状を消すことと、悩みは必ずしも一致しないということですね。ちょっとひとり言でした。(笑)
この点については、改めて書きたいと思います。

さて、今日は子供の心になる重要性について書いてみます。
吃音と子供の心が何でつながるの?とお思いでしょうが、カウンセリングの立場からすると大いに重要です。
私はACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)という認知行動療法を用いますが、ACTはマインドフルネスの練習をしていきます。
マインドフルネスには沢山の種類があり、呼吸のマインドフルネス、歩くマインドフルネス、食べるマインドフルネス、など様々です。
その中で私が好きなのは「手のマインドフルネス」です。これはラスハリスのアイデアなのですが、自分の手を5分じっと見るというエクササイズです。
どう観るか?は私がガイドしますが、まず最初に「この5分はどんな時間になると思いますか?」とお聞きします。すると大抵のかたは「退屈だろう」と仰います。
でも、実際に行うとほとんど全員のかたが「思ったより面白かった」と仰います。
これは何に気づくエクササイズかと言うと、私たちは物事を当然のように受け入れ、深く理解したり、十分味わったりしなくなっていること。物事に集中しているときは、人生がもっとおもしろく充実したものになるということ、です。
そして、「手に注意を向けたように、大切な人にも意識を向けたら、二人の関係はどうなると思いますか?」などと問いかけます。

このエクササイズを含めて、ACTのセラピストが使う代表的な言葉が「好奇心旺盛な科学者になったつもりで観察してください」です。
別の言い方をすると「初めて見たような気持ちで」とか「新鮮な気持ちで」と言う時もありますが、要約すると「子供のような気持ちで」と言えると思います。

なぜ、子供のような気持ちが大事かというと、子供は何も考えていないからです。(笑)
子供は、知識が少ないので、物事に先入観がなく、すべてが新鮮です。道端に咲いている花に驚いたり、昆虫を捕まえて眺めたりします。
それに対し、大人は知識があるので、すぐに「あ、これは○○だ」と判断します。知識があるから、新鮮な感動が失われるのです。
子供のころは、月日が流れるのは遅く、大人になるとあっという間に時間が経つのは、大人になると毎日が同じで習慣化され新鮮味が失われているからです。

そして、これは吃音に大きく関係しています。吃音者はどもりそうになったとき、過去の嫌な記憶を瞬時に思い出し、それが刺激となって吃音という反応が出ています。
つまり、瞬時に思考が判断しているのです。これはACTでいえば「思考」「マインド」の仕業です。
そこには「新鮮な気持ちで吃音を向き合う」ということはありません。つまり発見がないということになります。この状態では吃音に変化はありません。

カウンセリングで用いる文章で「知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子どもでも、なんでもすぐにわかりたがる大人より、美しいものに関する経験は、よほど深いかもしれません。実際、すぐれた芸術家は、大人になってもこどもの心を失っていないものなのです。」とあります。
私たちは、すぐに何でも頭でわかりたがる。そして知識を得て、わかったつもりになる。これは美しいものを見るとか芸術からするとわかっていないことになるのです。
吃音も同じで、頭で考えていては進歩がなく、考えを捨てて新鮮な子供のような気持ちで、初めて見るような気持ちで観察することが重要です。
すると必ず何か発見があるはずです。
これは吃音に限らないような気もします。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 吃音症・言語障害へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です