なぜイスラム教は偶像崇拝を禁止したのか?「マインドフルネス」の観点から考える。

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ちょっとマニアックな内容で、吃音とは直接関係ないのですが、マインドフルネスとは何か?と深いつながりがあるので書いてみます。

世界三大宗教とは、キリスト教、イスラム教、仏教ですが、その中でイスラム教だけが信仰に写実的な対象物がありません。
(キリスト教でもプロセスタントは十字架のみですが、そこは意味合いが違いますので置いておきます)

イスラム教に具体的な対象物がないのは、偶像崇拝を禁止しているからです。
キリスト教には、イエスキリストの十字架、仏教には仏像があります。その他の宗教にも、大体具体的な対象物が信仰されています。
偶像崇拝とは、神仏を具象するものとして作られた像などを、信仰の対象としてあがめ尊ぶこと。 また、あるものを絶対的な権威として無批判に尊ぶこと。 「偶像」は神仏などにかたどり、信仰の対象として作られた像。 崇拝や盲信の対象となるもののことです。
ちなにみに、キリスト教や仏教でも、偶像崇拝は良くないものだとされています。


イスラム教は、偶像崇拝を禁止しているので、模様が発展しました。つまり抽象化です。
モスクに美しい模様が描いてあるのを見たかたもいらしゃると思います。
また、アラビア文字も装飾的で美しいです。

Abdullah ShakoorによるPixabayからの画像

抽象化について話すと、絵画では、具象画に対して、抽象画というのがありますが、これは禅の思想も影響しているようです。
つまり「空」の思想です。色即是空 空即是色ですね。かなり乱暴に解説すると、物質や、私たちが見ている世界は幻であって、実体はない、目に見えないものにこそ真実がある。ということだと思います。
仏教に仏像が出来たのは、ヘレニズム文化に出会ってからで、最初はブッダも像を作ることは禁止していたようです。

吃音のカウンセリングで「椅子は座るものだ、りんごは食べるものだ」という文章を読んでいきます。
私たちは、椅子を見ると「座るものだ」と判断し、りんごを見ると「食べるものだ」と判断します。
これは、マインドフルネスの立場からすると「思考」です。
でも、その判断は正しいでしょうか?
椅子を知らない人は、座るものだとは思いません。(江戸時代の日本人とか)
画家は、りんごを食べるものではなく、美しいものとして見ます。
つまり「思考」や「判断」だけに頼った生活をしていると、物事の本質が見えなくなくなり、自分自身や人が作った価値観に簡単に騙されてしまう恐れがあるのです。ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)では、これを「フィシング詐欺に合う」とも言います。
仏教が、思考が作り出した世界は幻で、本質ではない、本質は「空」であると言っているのは、ここに理由があると思います。
例えば、私たちは世界を区分けしたりしますが、それは私たちが勝手に作ったもの、本当は一つかもしれませんね。

言語も判断に結びつきます。美しさを言葉で表して下さいと言われても、言葉に出来ないことはよくありますよね。
言語=シンボル=記号化 なので、言語だけでやりとりすると、感覚は正確に伝わらなかったりします。
仏教の中でも、密教は言語のやりとりに特に慎重です。言葉からは「判断」が生まれてくるので、修行という「体験」や「感じること」を重視するのです。密教に於いて、頭で判断し知的に理解して分かったつもりになるのは、越法三昧と言われ厳しく戒められます。

ここまで書いてきて、お分かりかと思いますが、イスラム教で、偶像崇拝を禁止しているのは、「神は目に見えないもの。具体的な対象物を見て、神だと思うのは間違いである」と考えられているのだと思います。
目に見える具体的なものを見て神だと思うのではなく、見えないものを感じる力を養うということではないでしょうか?
その一つが芸術ですね。
もちろん、私はイスラム教徒ではないし、専門家でもないので推測に過ぎませんが。

私は吃音の研究がなかなか進まないのは、目に見えるものだけを対象にする(唯物論)が主流だからだと思います。
医学や自然科学は唯物論の立場に立ちますので、仕方ないことではありますが、、。
目に見えない本質的なもの、その一つが心理学であり、宗教でもあります。吃音の研究で心理が遅れているのはそのことも影響しているのかもしれません。
しかし、マインドフルネスやコンパッションという仏教をベースにした心理療法が発展してきたことは、大変望ましいことだと思います。

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