見ると観るの違い

「見る」は受動的に何気なく見る。「観る」は能動的に見極めようとして観る。

私のカウンセリングでは、どもった時に身体に何がおこっているのかをみていきます。
吃音の身体感覚の観察ですね。具体的に言うと「首の周りが絞まっている感じ」とか、「舌が固くなっている感じ」などです。
もちろん、それはどもっている本人にしか分からない身体の反応です。「なーんだ簡単じゃないか!」と思われるかもしれませんね。
しかし、そう簡単ではありません。見方にもいろいろあるからです。


例えば、見ると観るの違いについてですが、
「見る」は、受動的に意識のない状態で見ること。
「観る」は、能動的に意識した状態で観ること。です。
そして吃音の観察の時は、この自分から観ていく姿勢がとても重要になります。
ほとんどの吃音者は、どもっている時に、身体になにがおこっているか?に注意を向けたことはないと思いますし、
仮にそこに注意を向けても、「周りからどう思われるだろうか?」などという
受動的な考えに頭が支配されていて、能動的になにかをするという意識は薄いと思います。

では、どうやって能動的にしていくのか?ですが、
これは吃音だけを切り取って変えていくのは無理があります。
つまり、生きていく上での、ものの見方や感じ方を変えていく必要があるのですね。

受動的から能動的へ。

実は、先日多くの吃音者と話しをしてきたある団体の方とやりとりをしたのですが、その方の印象として、「吃音者は他責思考の人が多い印象がある」のだそうです。「吃音がなくなれば」とか「吃音者に理解のある世の中になれば」という、自分では変えられないことに対して不満を持つ人が多いらしいのです。
もちろん、啓蒙活動や合理的配慮は必要だし、これから吃音者に理解のある社会に変えていく必要があります。しかし、社会はすぐには変わりません。
大事なのは、理解のない社会に不満を持つよりも「では、今何をするべきか?」と能動的に考えることが大事だと思うのです。
この「能動的」に変えていく過程で、吃音は改善したり、吃音で悩むのではなく生き生きとした人生を歩むことが出来るようになります。
実際、その団体の方もそう仰っていました。
私の実感としても、グループカウンセリングで能動的に発言をする人は改善が早いです。
物事に対して、受動的から能動的に変えていくこと。それだけで、吃音の悩みは小さくなると思います。

より能動的に生きられるように援助するのがカウンセリング。

しかし、実際は自分を変えるのは大変なことです。そのために、カウンセリングやコーチングがあります。
カウンセリングは、健常者がよりよく生きるために心の器を大きくしたり、柔軟な考え方やとらわれのない心を作るためのものです。
ですから、カウンセリングで吃音が改善した人は「何て余計なことばかり考えていたんだろう」とか「なんでこんなことで悩んでいたんだろう」と言う人が多く、それがカウンセリングの成功例なんですね。
ちなみにカウンセリングの失敗例は「おかげ様で治りました」です。この段階では、まだ吃音というものにとらわれているからです。
治ったとか治らないとかの次元よりステップアップするのが、カウンセリングの目的です。

評価をしないで受け入れる。

吃音の観察に話しを戻すと、これは「評価をしたり、先入観を持たずにあるがままを受け入れる」ことが大事になってきます。観察をしても、評価をしていては本質が観えてこないからです。
これは絵を観たり、音楽を聴いたりするのにとても似ています。なんとなく音楽を聞いていたら、良さはなかなか分からないし、その音楽に対して、先入観があったら本当の意味で聴くことは出来ませんね。絵を観るときも「これは有名な画家が描いた絵だ」という先入観があると、なんだかいい絵にみえたりします。(笑)
でも、それはそう思わされているのであって、本当に能動的に観た訳ではないですね。自分の目で観て、「本当は何を感じたか?」が大切です。
そして、それが出来てくると、自分の本当の気持ち(無意識)へのアクセスが始まり、変容があり、それから吃音の改善が始まります。

そう考えていくと、吃音の観察で能動的、主体的に感じていくことは、自分は本当にそうなのか?とか自分の本音はどうなのか?ということにつながってきます。

自分の本心に嘘をつかない。

私がいたセルプヘルプグループの先輩が「もし、ラーメンが食べたかったのに、どもりそうでかつ丼を頼んでしまったら、悔しくて泣きながらかつ丼を食うか、そのかつ丼を床に投げつけるべきである。そんな気持ちがなければ、吃音の観察など出来ない。」と言っていました。
それを聞いた当時は「過激なこと言うなぁー」ぐらいにしか思っていなかったのですが、今はよく分かります。かつ丼は例えであって、本質は自分の心にうそをつくなということです。
自分の本音にうそをついていると、自分が何者か分からなくなったり、自分が見えなくなったりしてきます。
この「悔しくて泣く」感情が、本当の意味で自分を大切にするということではないでしょうか。
また、自分の本心ににうそをついていると、吃音の観察はまず出来ません。吃音の観察は自分を見つめることでもあるからです。



また、クライアントとカウンセラーの関係で言うと、カウンセラーが自分に正直でないとカウンセリングは成立しませんし、クライアントは変容しません。
カウンセラーはクライアントのありのままを受容、共感する必要があるのですが、それが偽物になってしまうのですね。これをカウンセリングでは「一致」(カウンセラーが自分の本心に気づいていること)と言います。

では、自分に正直になるためにはどうすればいいでしょうか?
一番手っ取り早いのは

自分に正直な人と触れ合う こと 、近くにいることです。

特にカウンセリングでなくとも、一緒にいるだけでお互いの無意識が反応し自分を変えることが出来ます。
だから友達は選んだほうがいいです。この人と一緒にいると希望が持てるな、という人とはなるべく一緒にいたほうがいいし、嫌な人からは、なるべく離れたほうがいい。
人はいとも簡単に周りから影響されるからです。

まとめ


本題に戻すと、見ると観るの違いは、受動的、能動的に観ているかどうかの違い。
能動的に観るためには、生き方が主体的でなければいけない。
ということになります。自分の本音や本心を大事にして、やりたいことがあったらやってみる。
言いたいことがあったら言ってみる。
こういう生き方を身に着けてくると、吃音はおのずと改善してくると考えています。













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