西洋的科学的アプローチだけでは、成人の吃音は治らない。

現在、吃音は原因が特定されておらず。治療法も確定されていないと言われています。
また、吃音の原因は遺伝や体質が7割とされていて、当事者の努力ではどうにもならないと思われているようです。
しかし、それは科学的(医学的)アプローチのみの話で、私は偏った見方だと思っています。
(この場合、科学的、医学的は唯物論的と考えてください。)
もちろん、科学や医学を否定するつもりはありません。非常に大切です。しかし、私は一方向な見方に過ぎないと考えています。
強いて言えば、その一面しか見ない結果が、治療法が特定出来ない原因とさえ思っています。

では、その「別の見方」とは何でしょうか?

タイトルに「西洋的科学的」と書きましたが、その対極は「東洋的自然的」です。
西洋の考え方は、物事を対象化し、分解し分析します。
それに対し、東洋の考え方は、対象と自分を一体化し、部分でなく全体を見ていきます。

西洋医学は、細分化され、例えば「内科」があると「消化器科」などさらに細分化され、全体を見渡すことはあまりありません。
吃音の場合は、耳鼻咽喉科ですね。
東洋医学は、心と身体は別のものではないと考えます。つまり全体性を大事にするのです。

これを分かりやすく説明すると、例えば道端にすみれの花が咲いていたとすると、
西洋のアプローチは、まずすみれの花を地面から引っこ抜いて、花びらやおしべめしべをバラバラにし、どんどん細かくして分析します。
これに対し、東洋のアプローチは「生きているすみれの花」に自分が成りきるというアプローチです。
すみれの生き生きとした色合いや美しさ、生命力を大事にします。

ここで大事なのは、地面から引っこ抜いて死んでしまったすみれの花は、果たしてすみれの花なのか?ということです。
(ちなみに、すみれの花は、廣瀬カウンセリングや私がよく用いるメタファー、比喩のようなものです。)

どうも今の医学的アプローチは、吃音をどこかで「物質」として扱ってきているように見えるのです。
(それが科学なので間違ってはいないのですが、、)

吃音を体質的なものと見るか、心理的なものと見るかは意見が分かれると思いますし、両方が複雑に組み合わさっているとも言えますが、私は成人の吃音は、ほぼ心理的なものだと考えています。
もし、体質的なものなら、どんな時もどこでも、ある程度は同じように吃音の症状が出ると思いますが、例えば、一人ではどもらない、みんなで読むとどもらない、演技ではどもらない人、ものまねだとどもらない人がいます。
さっきまで、とてもどもっていた人が、一人になると突然流暢に話し出す、これを体質と呼べるのでしょうか?

これは、心理(行動分析学)なら簡単に説明できます。相手がいると、それが「刺激」となり、吃音という「反応」が出る。
相手がいないと、「刺激」がなくなるので、「反応」が出ない。
つまり、古典的条件反射です。
(ただ、この条件反射付けが行われる過程で遺伝は関係していると思います)

私は以前からこのことを疑問に思っていましたので、何人かの著名な専門家のかた達に質問してみました。
結論は、どなたも満足のいく答えではありませんでした。
そもそも、このことを疑問に思い、調べたり議論したりする研究者がいないようです。
(もしいらっしゃったら教えて頂きたいと思います。)
これは、心理を見落としてきたからではないでしょうか?

吃音に関しては、心理的な研究はすごく遅れていると言われていますが、これも「物質的な見方」が主流だからだと思います。
ようやく認知行動療法や、マインドフルネス、セルフコンパッションが出てきましたが、割と最近ですね。

廣瀬カウンセリングや私のカウンセリングは、数学者「岡潔」の思想に影響を受けています。

岡潔は西洋の唯物主義に近い自然科学は間違っていると言っていました。(医学は自然科学の一部です。)

岡潔はこう言っています。

「例えば、自然科学では、視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。でも故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。

いきなり読むと難しい文章ですが、これを吃音に当てはめると。

「例えば、自然科学では、言語器官とか言語中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら話せないという。でも故障がなかったら何故話せるのかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。

人は生きている。だから話そうと思えば話せる。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。」

つまり、人は「話したい」とか「伝えたい」という「感情」や「意欲」があって、それを言葉にして話している。
だから、なぜ話せないか?ではなく、なぜ話したいと思うのか?なぜ話したいと思うと声が出るのか?が大事なのではないでしょうか?
自分の好きなことや、感情が入った言葉はどもらないことが多いですね。
つまり、吃音を言葉の問題とするのではなく、人間として全体性を見る必要があると思うのです。

いずれ、科学がもっと発展すれば、この西洋的アプローチと東洋的アプローチが科学的な接点を持つかもしれません。
しかし、今のところはそれぞれの良いところを活かしていくのが良いと思われます。
吃音に関しては、西洋的アプローチは、今のところ向いていなくて、東洋的アプローチがもっと広まるとよいと思います。

ちなみに、私が思う東洋的アプローチとは、廣瀬カウンセリング、森田療法、マインドフルネス、コンパッション、ACTです。

では、東洋的アプローチなら治るのか?についてですが、私は基本的に治ると思っています。
一人ではどもらない、その時吃音は治っているわけです。条件によっては、その時その時で吃音は治っています。
どもるときは、その瞬間予期不安があるわけですが、問題はその対処です。
私は、マインドフルネスの「注意集中力」と「コンパッション」(思いやりの心)が、大きなポイントだと考えています。
「注意集中力」と「コンパッション」は、訓練によって養うことが出来ます。
最初に、「遺伝や体質が原因なので、当事者の努力ではどうにもならないと思われている」と書きましたが、それは努力すべきポイントが分からないからです。
「吃音が治らない」とあきらめるのは早いと思いますし、実際治ったり大きく改善している人は少なからずいらっしゃいます。

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