人はなぜ戦争をするのか?

先週は、つくばで行われた「日本吃音流暢性学会・第11回大会」に参加してきました。
このような学会に参加するのは、2018年の「吃音・クラタリング世界合同会議広島」以来でした。
広島の時は、東京言友会の廣瀬カウンセリングの一員として参加したのですが、今回は一応専門家として発表をしたので、慣れないことばかり。
しかし、高名な先生方と、吃音に関してもお話が出来たので貴重な体験でした。

さて、今日は吃音からは少し離れて「人はなぜ戦争をするのか?」について考えてみたいと思います。
それも、一応私も心理カウンセラーですので、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)の観点から書いてみます。

今、ハマスとイスラエルの戦争が激化しています。と同時に、ロシアとウクライナの戦争も長期化しています。
ここで心配されるのは、第三次世界大戦ですね。
多くの専門家が指摘しているように、アメリカの軍事力が中東にかかりっきりになると、ウクライナへの支援はヨーロッパだけになるし、北朝鮮が何かすれば、韓国だけが対応し、台湾に中国が侵攻すれば、日本の基地は攻撃される。つまり、戦火が世界に「飛び火」する可能性があるのですね。

しかし、人間はなぜ戦争をするのでしょうか?今まで散々人を不幸にして、反省をしてきたはずなのに、なぜやめられないのでしょうか。

これをACTの基礎となる「関係フレーム理論」から説明してみます。あくまで私の個人的な考えです。

一言で結論を言うと、人が戦争をするのは「人類が言語を獲得したから」だと思います。

関係フレーム理論とは、人間の言語や認知に関する行動分析学的アプローチを体系化したものです。
ACTや関係フレーム理論では、「人類の苦悩の根源は、人間の言語に他ならない」と考えます。
(この場合の言語とは、単語はもちろん、心に浮かぶ映像、音、顔の表情や身振りなども含む、記号の一種です)
この言語は、公的なものとしては、話す、会話する、身振りで表す、文を書く、絵を描く、歌う、踊る、など、、。
私的なものとしては、考える、推測する、物思いにふける、計画を立てる、分析する、心配する、空想する、などが挙げられます。

そして、その言語によって私たちは「思考」をしています。これが「頭の中のひとりごと」です。
この「頭の中のひとりごと」は、分析、比較、評価、計画、想起、視覚化のような、複雑な相互認知プロセスです。
そして、そのプロセスは人間の「言語」という、高機能な記号体系に依存しています。

この「言語」はもろ刃の剣です。
良い面としては、表現するのに役立つ、知識を他者と分かち合う、など。
悪い面としては、自分と他者を比較、判断、批判する。となります。

ACTの専門家、ラスハリスの言葉を借りると、言語は人間にとって、祝福でもあり呪詛でもあるのです。

例えば、「私」とか「あなた」という言葉を知らなければ、私とあなたを比較することはありません。
「あの人は、私より賢い」とか、「お金がある」とか、嫉妬する心もないわけです。
そこにはただ、自分の生きている実感があるだけです。言葉を持たない、動物や人間の赤ちゃんがそうですね。
また、言語がなければ、過去の想起もないわけですから、過去にひどい目にあわされたから復讐しようとも思わない。
未来の予測もないですから、相手が攻めてくるかもしれないから、先制攻撃しようとも思わない。
そもそも、思考することが出来なければ武器を作ることも出来ないのですね。

それと同時に、言語にはカテゴライズする力があります。
例えば、「果物」という言葉は、バナナやリンゴやみかんなどの総称ですが、動物には「果物」という概念はありません。
ただ目の前のものが食べられるか?どんな味がするか?くらいだと思います。

これを戦争に当てはめると、パレスチナ人とかユダヤ人という認知は「言語」の働きです。
(パレスチナ人=ハマスではありませんが)
パレスチナ人にも、ユダヤ人にも、人それぞれ個性があり、考え方も違うのですが、それを一括りに「○○人」と言ってしまう。
すると、○○人だから○○に違いないと「先入観」が生まれてしまう。
憎しみの連鎖が、言語と共に増大するのだと思います。

例えば、「黒人」と言われると、少し怖いというイメージが浮かびませんか?
これは、テレビなどのニュースで、犯罪を犯しているのは貧しい黒人が多いという先入観だと思います。
黒人にも、いい人はいっぱいいるわけです。

国と国とは戦争をする場合、「○○は悪い国だ」という言語が、私たちの頭を駆け抜けます。今だとロシアがそうですね。
しかし、○○人でも一人ひとりと友達となり、お互いによく知れば、同じ人間だと分かります。

その、友達として接する「肌感覚」より「言語による先入観」が力を持ってしまうと、その人個人を知るのではなく「言語のルール」に支配されてしまうのです。

動物も戦いますが、無益な戦いはしません。同族で殺しあうのは人間だけです。

では、どうすればよいのでしょうか?
それは、さっき書いたように「言語による先入観」よりも「肌感覚」を大事にすることです。
「肌感覚」とは「五感」のこと。つまり「言語」を使って考えてばかりでなく「感じる」ことを大切にすることです。

芸術は、言語以前の感覚を大事にするため、芸術に触れると物事を先入観でみるのではなく、本質を見られるようになります。
芸術家に平和主義者が多いのは、言語ルール=先入観、に縛られず、人としての感覚を大事にするかもしれませんね。

マインドフルネスも「目の前の現実に注意を向ける」ことなので、言語ルールを弱める働きがあります。だから、ACTはマインドフルネスを重視するのです。
瞑想は、憎しみを静めますが、それも言語ルールを弱めるからです。

うつや不安症の人は、言語ルールが強く(私は○○だという思い込みが強い)日常の些細な変化を感じ取れない傾向があることがわかっています。
吃音者はよく○○行が苦手と言いますが、これも言語ルールの可能性があります。
このルールに支配されると、その行が本当に苦手になってしまうかもしれません。
そうならないためには、些細な変化を感じ取ること。つまり、身体感覚とか、相手の表情、自分や相手の感情を感じ取ることです。
実際、吃音の治療でも、相手の顔を見ながら話す、相手の背景に注意を向ける、などが一部で行われているようです。
また吃音の話になってしまいましたが、これ以上戦争がおこらないように、先ずは自分の周りが仲良く暮らせるように、自分自身が周りに注意を向けながら生活したいと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 吃音症・言語障害へ





コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です