吃音は個性か?について。

最近Twitter界隈で話題になっている「吃音は個性か?」について書いてみます。
私が思うに「吃音は個性」と言う人たちは、ある程度吃音を克服した人達だと思います。
それと「個性」ではないと言う人達は、吃音を受け入れられないか受け入れられない人達の気持ちに共感している人だと思います。


私自身は「個性」でもよいと思います。人間味を感じますから。
でも、言われて苦しい人に押し付ける気持ちはもちろんありません。

もう少し詳しく言うと、吃音を含めた「私全体」の「個性」です。
吃音だけを切り離して「個性」だという意味はあまり感じません。無機的な感じがします。
「吃音」と「私」は切っても切れない関係だからです。

また。「個性」という言葉は、決してポジティブなものだけではありません。
単なる「他との違い」という意味もあります。どのような意味づけをするかはその人の自由です。

それと、当事者でないかたが「個性」と言った場合も、受け止め方が分かれます。
傷つけないように「個性」という言葉を使ってくれているいる場合もあるかと思います。
吃音者からすると「分かってくれてない」と思うかもしれませんが、一般の人たちが一生懸命考えて使ってくれている可能性もあります。

まぁ、私は本当のところはどちらでもよいのです。(笑)あまり論議する意味は感じません。

ただ、吃音界隈では「個性」問題に限らず、「カミングアウトするかどうか?」「合理的配慮を求めるかどうか?」
はたまた「受容」か「改善」かについて意見が分かれますね。

私自身は、意見をぶつけ合うより、他と対立しないで融和していこうと努力することに意味があると思います。
自分の対立する考えを持った人に「あいつはこうなんだ」とか「絶対に違う。受け入れられない。自分に従わせたい」と思うことはありませんが?これはある意味本能です。誰しも自分が大切だからです。

勿論私にもこの考えはあります。
でも「話し合いたい。」「認めあいたい」という気持ちもあります。

前者は「自他対立的な見方」後者は「相手そものもになる見方」です。

実は、これはカウンセリングでも重視しているポイントです。

「自他対立的な見方」を常にしている人は悩みも含めて吃音がなかなか改善しない傾向があるように思えます。
「相手そのものになる見方」を心がけてる人は、比較的悩みが軽くなり改善するようにみえます。

吃音を治そうと一生懸命頑張って、なかなか結果が出ない人がいますが、これは「自分が大切だ」から抜け切れていないからだと思っています。
仏教でいう「我執」に囚われている状態だからですね。

グループカウンセリングで相手の話を真剣に聴く練習をするもの「我執を離れる」からです。
これはマインドフルネスにも通じます。

私が行っているACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)には「チェスボードのメタファー」というのがあります。(メタファーとはたとえ話ですね。)
チェスは敵味方に分かれて戦うゲームですが、自分の意識はチェスの駒に置くのではなく、チェスボードに置き、争いではなく、それを観察する視点を養うのがポイントとなります。
これを「視点取得」といいますが、観察することによって新たな「智慧」が生まれることがあります。
つまり、争うのではなく、どうしたら仲良くできるか?力を合わせられるか?のアイデアや直観が湧くのです。

個性かどうか?にこだわらす、全体を俯瞰して見る視点を持ちたいものですね。

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