フランクル「夜と霧」絶望の果てに光がある。
「夜と霧」という本、ご存知でしょうか。著者は精神科医だったヴィクトール・フランクルです。
ユダヤ人だったため、第二次世界大戦の時、ナチスによりあのアウシュビッツに収容され、過酷な環境の中、囚人たちが何に絶望したか、何に希望を見い出したかを精神科医の立場から記録した本です。
この本は心理学やカウンセリングを学ぶものは必ずと言っていいほど読む本で、世界的なベストセラーともなっています。
実はACTの本を読んでいたらこの本が取り上げられていたので、「夜と霧」は読んでいましたが、それとは別にNHKの100分で名著で取り上げられた時の本を友人から借りられたので、読んでみました。
著者は心理学者やカウンセラーとして有名な諸富祥彦(もろとみよしひこ)さんです。
強制収容所での生活は、この世の地獄と言えるほどの過酷を極めました。
当然フランクルは、そういう悲劇を書き残したいという使命感があったでしょう。
しかし、この本でもっとも伝えたかったことは、人間以下の家畜のような扱いを受け、明日の命の補償もない捕虜たちの中に、それでもなお何物にも冒されない崇高さをもった精神が根付いていたことだったのです。
自分が飢えているのに、もっと飢えた人に自分のパンを与える人、過酷な状況にあっても、夕日の美しさに感動する心を忘れない人がいたそうです。
しかし、通常はこういう状況になると人は感情を失います。それは自分の心を守るために「無感動」「無感覚」「無関心」になる必要があるのです。フランクルはほとんどの人は「文化的冬眠」状態に陥っていたと言っています。(ちなみにカウンセリングで使用するテキストでも「心の冬眠状態」という言葉が出てきます。)
では、そうなる人とならずに人間的な心を失わなかった人との違いは何だったのでしょうか?
また、死んでいく人と生き残った人との違いは何だったのでしょうか?
フランクルは「未来に対して希望を持ちえているか否か」と言っています。
そのことを端的に示すエピソードがあります。
1944年12月。クリスマスから新年にかけてそれまでになかった数の死者が出ました。
理由は、過酷な労働でも、飢餓でも、伝染病でもありません。
「クリスマスには休暇が出て、家に帰ることができる。」という思い込みが皆を期待させ、それが見事に裏切られた時に、多くの死者が出たのです。クリスマスに何も起きなかったことで皆が落胆し、力尽きて倒れたのです。
では、生き永らえた人はどんな人だったでしょうか?
フランクルは、自由の身になったら、書きかけの原稿を仕上げて世に問うという目標がありました。
自分の著作は、苦難と闘っているすべての人から待たれている、だから何としてもこの本を世に出さねばならないという使命感があったのです。
これは、地獄のような体験をしたフランクルだからこと言えることで、机上の空論としてでなく説得力がありますね。
それとは別に、フランクルが発見した事実。それは前にも書いたように、死にゆく仲間のパンや靴を奪い取る者がいた一方で、自分が飢えているのに、仲間にパンを与え、あたたかい励ましの言葉をかけ続ける人がいたということです。
極限の状態にあっても、人間は一様に同じ状態になるのではないということ。
その人はどのような人間であるかは、あくまで個人がとる精神的な態度によるということ。
これをフランクルは収容所の中で発見したのでした。
フランクルの精神科医としてのアプローチは「ロゴセラピー」として体系化されています。
「ロゴス」は意味、「セラピー」は癒しという意味です。
ロゴセラピーのエッセンスは次のようなものです。
どんな時も、人生には、意味がある。
なすべきこと、満たすべき意味が与えられている。
この人生のどこかに、あなたを必要とする「何か」がある。
あなたを必要とする「誰か」がいる。
そしてその「何か」や「誰か」は、あなたに発見され実現されるのを「待たれている」存在なのだ。
だから、たとえ今がどんなに苦しくても、あなたはすべてを投げ出す必要はない。
あなたがすべてを投げ出したりしなければ、いつの日か、人生に「イエス」という日が必ずやってくるから。
いや、たとえあなたが人生に「イエス」と言えなくても、人生のほうからあなたに「イエス」と光を差し込んでくる日が、いつか、必ずやってくる。
フランクルは、人間の人生はいついかなる時でも、その意味が失われることはないこと。
私たちの人生はいつでも有意義なものにすることができる可能性が残されていることを示しています。
カウンセリングや心理療法の多くは、悩みや苦しみを取り除いていこうとします。
それに対してフランクルの心理学は、悩みや苦しみの持つ積極的な意義に着目します。
「苦悩すること」は人間の一つの「能力」であると考えたのです。
「生命そのものが、一つの意味をもっているなら、苦悩のまた、一つの意味をもっているに違いない。」(夜と霧)
最初に書いたように、今回フランクルを読んだのはACTの本に書いてあったからですが、それはACTのコアプロセスの中の「価値」と「コミットされた行為」の部分です。
人生にとって大切なものを見つけ、それを行動に移すことですね。
ACTの本では「フランクルが行ったコミットされた行為は、心の中の妻に関するものだった。
妻が生きているか死んでいるか分からない状況で、絶望せずに妻のイメージを心の中に抱き続けるほうを選んだ。そうするたびに、彼は選択して、自分の価値へのコミットメントに従事したのである。」と書いてあります。
フランクルにとって、妻への愛情が「価値」で、心の中でイメージを抱き続けることが「コミットされた行為」だったのでしょうね。
この本の寄稿の中で、姜尚中(カンサンジュン)さんも書いていますが、フランクルの言葉には祈りを感じます。
それも、ユダヤ、キリスト教的な崇高な祈りです。祈りの力はすごいですね。
「苦悩する人生には意味がある。」フランクルは解放された後、自分には人々を救う使命があることに「価値」を置き、生き延びるという「コミットされた行為」を行いました。
さあ、私たちはどうでしょうか?
私は幼少より吃音で、確かに人生にはマイナスだったと思います。でもそれには意味があったと思っています。
自分にしか出来ない「何か」をするために、様々な経験をしてきたのだと。
そしてその一つが「吃音のカウンセラー」だったのですね。
そして、こうしてブログを書いているのも、カウンセリングをするもの、勉強をするもの「コミットされた行為」です。
最後にフランクルの言葉を載せます。
「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望することはない」