○○行で吃るって本当?

吃音者は良く「あ行でどもる。」とか「か行でどもると」か、言いますね。
人によって違いますが、○○行でどもるという表現はよく聞きます。
これは本当でしょうか?また、そう捉えることが良いことなのでしょうか?悪いことなのでしょうか?

私自身もあ行、か行、た行などが苦手で、さ行が言いやすいと思っていました。
しかし、吃音のカウンセリングを受け始め、自分の吃音を観察するようになってから
苦手な行でも言えるようになったことがあり、逆に得意なさ行が言えなくなってきた時もありました。
要は常に変化しているということです。
時系列でも変化しているし、言いにくい言葉や言いやすい言葉も変化しています。
その観察を怠ると、○○行が苦手だという大雑把なくくりになってしまうと考えています。

確かに、行によって発声のしかたが似ているので感覚的に分からない訳ではありません。
ただ、どもるときはそれだけではなく、二音目への繋がり、全体の抑揚やリズム、その時の環境も大きく影響しています。

先日、ある専門家のかたと話しをしていて、そのかたも○○行でどもるということはないのではないか、と仰っていました。
あ行(母音)でどもるという人が多いのは、使う頻度が多いからとのことでした。

また、一つの傾向として、自分の名前に関係する行が苦手となる傾向があります。
例えば、私なら「まだ」なので、「ま」が言いにくい、そして「ま行」が言いにくくなるという具合です。

これはいろんな理論で説明出来ますが、私は「関係フレーム理論」で説明しています。
関係フレーム理論とは、人間だけが恐怖を派生させる動物という理論で、直接体験していなくても、派生して恐怖を学習してしまうというものです。
これはACTの理論的なベースとなっています。

例えば、さきほどの「ま」が苦手というのは、名前が言えない嫌な体験をしてそれが恐怖として頭の中に残ります。
それとは別に、「ま」と「ま行」は発声方法も似ているし「ま行」という分かりやすい(ある意味記号化された)表現によって「同じもの、仲間のような言葉」と認識されています。
関係フレーム理論によると「ま」が苦手だと学習すると、派生して「ま行」全体が苦手だと学習してしまうということになります。

吃音の観察はあるがままが大切ですが、この場合のあるがままとは「正確に、正しく」という意味になります。事実を捻じ曲げないことです。

どんな言葉でどもりやすいのか?を正しく自覚すると、恐怖は余計に派生しなくなります。
この場合。今は「ま」でどもった。この次はどうかは分からないし、他の言葉との関係はない。で終わらせることができます。
それと、正しく自覚すると身体は余計な反応をしなくなるという性質があります。
「今、こんな反応があったよ」と正しく身体に教えてあげることが大切です。

ACTや関係フレーム理論では「言語ルールが支配的になると目の前の微妙な変化に気づきにくくなる」と言われています。
つまり、「○○行でどもる」というのは言語的な認識ですから、このルールや思考に支配されてくると微妙な変化(つまりどもった時の身体の内的な感覚や相手の表情など外部の情報)に鈍感になってくる傾向があります。
吃音を身体で「感じる」のではなく、頭で「理解する」ことになってしまいます。
これでは吃音に変化は現れません。

マインドフルネスは「外から入ってくる情報と自らの内部から湧いてくる情報のいずれにも自由に注意を向け、それを批判したり先入観で決めつけたりせず、ありのままを受け止められるようにすること」です。

つまり、、○○行でどもるというのは「先入観」にあたると考えられるので、決めつけ(どうせどもるだろうという予測)に結び付きやすくなるのではないでしょうか。

私自身は、○○行でどもるという感覚は今は全くありません。
どもったとしても、その時の「今ここ」の感覚が大事で、それ以上の「派生」は減ってきています。

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