吃音を克服したければ、克服しようとしないこと。

今回は、曹洞宗の開祖「道元」の教えについて書いてみます。
仏教学者のひろさちやさんは、
「多くの人は貧乏であれば貧乏を苦にしてなんとか貧乏を克服しようとします。
貧乏を克服しようとすれば、あくせく、いらいら、がつがつとた人生を送らねばならない。
それで貧乏が克服できる保証もありません。
仮に金持ちになれたとしても、いらいら、がつがつと生きる人生どれだけの意義があるでしょうか?」
と言葉を残しています。

仏教には「智慧」という言葉が出てきます。今まで何度も書いていますが、「知恵」と「智慧」は違います。
ひろさちやさん曰く、「知恵」とは貧乏は人がどうしたらお金持ちになれるか?と考えるのは、世俗の「知恵」。
それに対し、貧乏なら貧乏なままで心が満たされて幸せになるには、どういう生き方すればよいのか?が「智慧」ですね。お金=幸福ではないからです。
これは「心の目」が開いていることでもありますね。
吃音に置き換えると、どうしたら克服できるか考えるのが「知恵」
克服できてもできなくても幸せに生きるのが「智慧」です。



道元の言葉の中に「生死(迷い)であるからといって忌避せず」といいう言葉があります。
この意味は、迷いがあるからと言ってこれを避けてはならないということです。
私達は迷いを克服したいと様々な試みをしますが、そうではなくて、悩むことは悪いことではない、しっかりと悩みなさい、と言う意味ですね。
むしろ悩みの中に悟りがある。悩みと悟りは一枚のコインの裏表なんですね。
実は私が今行っているACTも、悩みを消そうとはしないでそのままにしておくことがポイントとなります。
ACTは仏教がベースになっています。
吃音の悩みも、避けることはせず、しっかりと悩み、心の目を開いていきなさいということですね。

さて、道元の教えに「身心脱落」というものがあります。
言葉のとおり、身も心も捨て去ること、という意味です。
私達には「自我意識」というものがあります。
「俺が俺が」「私が私が」という心ですね。
その自我意識を捨て去った境地が「身心脱落」です。
私達は悟りを得ようと修行するわけですが、悟りたいために修行するのは「迷い」であるということです。
つまり、悟りたいというのは「邪心」であり「自我意識」なんですね。
だから、仏になるために修行するのではなくて、もともと悟りの世界にいるのだという立場で修行することだと道元は説きました。
「身心脱落」した後だと、悟りも迷いもないということですね。
別の言い方をすると「自分のほうから宇宙の真理を悟ろうとするのは迷いであり。
宇宙の真理のほうから働きかけて自分を悟らせてくれるのは悟りである」となります。

私はカウンセリングでも「悟り」のようなものが大切だと思っていますが、
この「身心脱落」を吃音に置き換えてみましょう。

私達吃音者は、吃音を治そうとしたり、克服したりしようとするわけですが、
それは「迷い」であるということです。
むしろ、吃音で悩むことは悪いことではなく、しっかりと悩むことが大切。
「自我意識」を捨てて「身心脱落」の境地に近づけば、克服は向こうからやってくるのです。




吃音を克服したいとあらゆる治療やカウンセリング、セミナーなどを渡り歩いても成果が出ない人がいます。
それは、動機が「自分の吃音を治したい」なので、返って自意識が増大し、行き詰ってしまうのだと思われます。
ACTでは「もともと良い効果を持つ活動(マインドフルネスなど)も、体験の回避(悩みを避けたい)に
動機づけられているときはよりも、価値のある行動、自分がどう生きたいか?によって動機づけられている
ときのほうが、より充実し、成果も大きくなると考えられている。」(2012ラス・ハリス)と言われています。
「信心脱落」と原理は同じです。
ただし、結果として吃音が軽くなることはよくあります。
でも、それはあくまで副産物であって、ゴールではありません。

吃音を克服する道とは、どもってもどもらなくてもどうでもよい境地に近づくこと。
それは「身心脱落」への道と同じです。

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