「空」の立場から吃音を考える。

今回は少し難しいタイトルです。「空」とは、あの仏教の「空」です。
以前のブログに「般若心経とアドラー心理学」を取り上げましたが、今回は「空」を中心に書いてみます。

ググってみると「空とは、すべての存在は因縁によって生じたものであり、実体のないものであるとする思想のこと」と書いてありますが、こう言われてもよく分かりませんね。
果たして、このよう説明で私達に何の役に立つのでしょうか?
もっと、実生活に役立ち、かつ吃音にも役立つように解釈してみましょう。

砕けて言うと「空」とは、「私達の目には見えないけれど何か感じている大切なもの」です。
(空はカラで何もないという意味ではありません。)

例えば、夕日を見てきれいだなと思ったとき、実際に見えている物質は空気や雲や空です。
でも私達はきれいだと思った時は物質としては意識していなくて、真っ赤な色や、その色合い、雲の形などを「きれいだな」と見ている、つまり実体として見ていない訳です。
これが「空」です。



カウンセリングのテキストで使う、小林秀雄の「美をもとめるこころ」に
「りんごは食べるものだ、だからりんごがどんなに美しい色合いをしているか、つくづくながめたことのある人は少ない。」という文章があります。
これも、「りんごは食べるものだ」とか「果物だ」とか実体としてとらえているうちは「空」を感じているのではなくて、
その「色合い」を見て美しいと感じているときは「空」を感じているということになります。
「色合い」は実体(物質)ではありませんね。

絵画に置き換えてみると、絵を見て感動するのは、何が描いてあるか?が大事なのではなくて
画家がどう感じてどう描きたかったか?を感じることが大事ですね。
リンゴが描いてあるから感動するのではなくて、その色合いとか形とか線の流れとかに美しさを感じるから
感動するのですね。
だから、極端に言えばりんごを描かなくてもその美しさを描くことは可能です。
それが抽象画です。
実は抽象画の原点は「空」なのですね。

ではなぜ「空」の見方が大事なのか?
それは「判断」とか「思い込み」「先入観」「概念」から自由になるためです。

例えば、部屋に椅子がありますね。
椅子と聞くと、私達はすぐに座るものだと「判断」してしまう。
それはそれで正しいのですが、もしも部屋に猫がいたとして、猫から見たら椅子はなんでしょうか?
座るものではありませんね。
つまり、椅子=座るもの、は椅子の使い道を知っている人に「概念」としてしか通じません。
過去に椅子に座った経験のある人だけのものです。(原始人にも分からないでしょうね。)

このように、私達は「概念」で生活をしているのですが、「概念」のみに縛られた生活をしていると、人が作った「概念」に惑わされたり、それ以上本質を見ようとしなくなってしまうのです。

例えば、さきほどのりんごを例にすると、りんごという概念だけで判断すると、りんごの色合いの美しさを見逃してしまうことになります。
ちなみに、この「概念」から自由になるのが「芸術」ですね。

UnsplashRobson Meloが撮影した写真

それから、人が作った「概念」に惑わされることについてですが、「この絵は、○○という有名な画家の絵で、とても高価なものだ」という概念を植え付けられると「ほー」となってしまい、自分はその絵を観て
本当はどう感じたのか?分からなくなってしまいます。
もしかしたら、たいしていい絵だと思っていないのに、いい絵だと思い込もうとするかもしれませんね。

これを人間関係に置き換えると、どうでしょうか?
この人は会社の社長だから偉い人だ。
口数が少ないから性格が暗いに違いない。
きっと私のことが嫌いに違いない。
という先入観に縛られて生活しなければなりません。これは疲れますね。
「空」を活かした生活とは、
社長だけど、本当はどんな人なのか?じっくりと話しを聴いてみよう。
本当に私のことが嫌いなのか分からないけど話しかけてみよう。
とか、先入観に縛られない生活のことです。

また先ほど、人が作った「概念」に惑わされると書きましたが、それを吃音に置き換えるとどうでしょうか?
私達は「吃音」と聞くと、「恥ずかしいもの」「いやなもの」だと「判断」してしまう。
しかし、吃音は恥ずかしいとか、いけないものだという「概念」は自分が本当に感じたものでしょうか?
多分、そうではなくて周りの人から笑われたり、指摘されたりして、いやいやその「概念」を植え付けられたのではないでしょうか?
だから吃音は対人関係に於いて症状が出るものなのです。
これも「空」を知れば、自由になります。
恥ずかしいとか、いけないものだという「概念」は、実は実体のないもので思い込みかもしれないと
思えるからです。

また、吃音だと「判断」してしまうと、その時に自分に何がおこっているのかを見逃してしまうことになります。
りんごと「判断」してしまうと、その色合いなどを見逃してしまうのと同じです。
吃音の場合、見逃すのは、その時の自分の感情、身体感覚、相手の表情や感情などですね。
つまり、マインドフルネスで吃音を観察するときは、「判断」や「概念」ではなく「空」の立場から見ていることになります。

カウンセリングとは「本当の自分の気持ち」や「ありのままの自分」に気付いていく過程です。
つまり「空」の境地に近づくことです。
皆さんも、嫌な人と話したり、興味のないことについて話す時は吃音が出やすかったりしませんか?
その逆に、好きな人と好きなこと、興味のあること、感動することについて話す時は吃音が出なかったりします。
それは「本当の自分の気持ち」を話しているからです。
嫌な話題は「概念」として話すので、感情意欲が入らないのですが、
好きなことは、感情意欲が溢れて話しています。
これも「空」(実体はないが、何か大切なものを感じている)です。

いかがでしょうか。「空」と吃音について書いてみましたが、
「空」を意識してみると、吃音や世界の見方が変わるかもしれません。

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