吃音の受容派と改善派の対立について
受容派の方が多い印象がある
そもそも、吃音に「受容派」と「改善派」があるかどうか分からないし、カテゴライズする必要もないと思うのですが、便宜的に分けてみます。
最近X(Twitter)を見ていると、吃音が改善したと投稿すると反発されることがあるようなので、なぜなのかちょっと考えてみました。
「受容派」と「改善派」があるとすれば、私はどちらかというと「改善派」に入ると思います。しかし受容派を否定するつもりはありません。
受容なくして改善もないと考えるからです。
SNSを見ていると、受容派が多いですね。改善派は少ないような気がします。
私が改善派なのは、最初に触れた吃音のカウンセリングが、はっきりと治ると主張していたからです。
実際治った人も多かったですし、私自身もかなり治りました。
(治るの定義は難しいですが、症状が完全になくなることは難しいので、人生に不自由がないくらいに改善すればよいと考えています。)
ただ、この吃音のカウンセリングは言友会のサークルでしたが、まわりからの圧力はあったようです。
受容派のおおもとの考え方には「吃音者宣言」とか「治す努力の否定」という考え方があるのでしょうか?
私は、言友会歴が長くはないので詳しくはないのですが、「治す努力の否定」の考え方は一部分かるような気がします。
吃音は、治すことにこだわりすぎると、あまりよくないケースもあるからです。
治す努力をすべてやめたら、吃音が治ったという例もあるくらいです。
(私はこれを「吃音の改善はゴールではなくボーナス」だと考えています。)
改善派は攻撃されることが多い?
また、私の知る限り、「改善派」が「受容派」を攻撃することは、あまり聞いたことがありませんが、その逆は多い気がします。
私が思うに、「受容派」の人達も、最初は改善しようと努力したのではないでしょうか?
しかし、万人に有効な方法は今はありませんから、あきらめざるを得ない。
「もうこれ以上辛い思いをするくらいなら、受け入れて諦めよう、あとは社会が変わるのを期待しよう。」
と、思わざるを得ないのかもしれません。
それと、もし吃音が治ったり、改善することができることが分かったら、社会に認知されたら、、、。
吃音は治るのだから治すべきだ。治せないのはおまえの努力が足りないからだ。と思われてしまうかもしれません。
(これは実際、何人かの吃音者から聞いた話です。)
これに対して、改善派は「だからと言って私たちの足を引っ張らないで。」となってしまうのですね。
これが、一つの溝となっているような気がします。
また、受容派が改善派を嫌う一つの理由として、改善した人は、自分の成功体験を人に押し付ける傾向があります。
自分が、これで吃音の苦しみを乗り越えたのだから、あなたもそうするべきだ、私が治ったのだから、あなたも治すことができる。
という考えに陥り易いのではないでしょうか。
受容派のかたは、散々悩んだ末に治らないから受け入れようと結論を出したのに、治ると押し付けられると余計に頑なになってしまうと思います。
吃音者はインショナルビリーフが強い
心理療法の中に「論理療法」というものがあります。
(今盛んな「認知行動療法」は「認知療法」と「行動療法」の組み合わせですが、「認知療法」と「論理療法」はほぼ同じです。)
その論理療法の中に、「インショナルビリーフ」があります。
インショナルビリーフとは、○○でなければならない、とか○○なはずだ。という思い込みです。
私の私感ですが、吃音者はインショナルビリーフが強い傾向があると感じています。
このインショナルビリーフが強いと、自分の価値観や枠組みが強くなってしまうので、相手も自分と同じでなければならないという、間違った信念に陥りがちです。
私は、吃音界隈で対立が多いのは、この「自分の価値観を人に押し付けたい」という欲求の表れかもしれないと思っています。
人は自分と同じ考えである必要はないし、違っていて当然。
「こうでなければならない」と考えるのは、苦しみを生みます。
お互いに理解を示し、相手の立場になって考え、干渉しない人間関係も、正しい一つの生き方ではないでしょうか?
最後に、「ゲシュタルトの祈り」を載せます。
これは、心理学者フレデリック・パールズが、ゲシュタルト療法で使う祈りです。
ゲシュタルトの祈り
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世にいるのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世にいるのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。