仏教の「縁覚」の悟りと岡潔の境地

真智無差別智の悟り

私が学んだ廣瀬カウンセリングでは、岡潔という著名な数学者の書いた
「春の日冬の日」という文章を読んでいきます。
この文章の中に、吃音を改善させるヒントがあるからなのですが、
その中に「真智無差別智」という聞きなれない言葉が出てきます。

真智無差別智」とは仏教の言葉です。岡潔は仏教に精通していたのですね。
そして「真智無差別智」とは、今で言う「直観」です。


私達が普通経験する知力は理性のようなものです。
これは意識的にしか働かないし、わかり方は少しずつ順々にしかわかって行かない。学校の勉強や仕事を覚える事などがそうですね。
しかし、たとえば仏道の修行の時とか、芸術の制作とかそういった場合に、これと違った型の知力が働くことがあります。
無意識裡に働いて、一瞬でパッとわかってしまう。これを無差別智と言います。
意識を通さずに、分かるということです。

結論から言うと、カウンセリングでは、「この一瞬で分かる現象」が起きることがあります。

廣瀬先生は、よく「ハッとすること」が大事だと仰いました。
これも、考えないでいきなり何かに気づくということです。

ではどんな時にハッとするのか?いきなり気づくのでしょうか?

自然を感じることも、一種の悟り

「春の日冬の日」は、松尾芭蕉の俳句も取り上げています。
俳句とは、言わば自然の観察です。
その自然の移り変わりに、何かを感じた時に詠むのが俳句ですね。
(専門家でないので、詳しい定義は分かりませんが)
この自然の観察で、ハッとすることがあるとしたら、それが一つの悟りです。


仏教に人の境地を十の世界で説明した、十界というものがあります。
下から、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界、声聞、縁覚、菩薩、仏です。
この中で、声聞、縁覚、菩薩、仏が悟りの世界です。
その中で「縁覚」については次のように言われています。

「縁覚とは落葉(らくよう)などの天地(てんち)の自然の変化という縁(えん)によって悟ることを意味します。事(こと)が起こるには、必ず原因がありますが、それだけで結果はでないはずです。例えば、花を咲かせるには、まず種(たね)を蒔(ま)きます。しかしそれだけで花は咲くでしょうか。太陽の光や雨の恵みを受けて、時が経ち、やがて芽が出て、葉をつけてようやく美しい花は咲くものです。そのように自然の変化のなかにはたくさんの因縁(いんねん)があって、花を咲かせるという結果となります。その因縁が積み重なって今の自分があるということを世の無常を通してよく理解して悟ることを縁覚といいます。」大覚寺のホームページより。

この「縁によって悟る」ことを言い換えると「五感を使って感じること」になります。
私は、俳句とはまさに縁覚の悟りだと思っています。
なぜ、こんなことを書くかというと、吃音カウンセリングでは吃音時の身体感覚や思考、感情の観察をするのですが、ある程度この境地に達していないと観察が出来ないからです。
マインドフルネスも元は仏教の瞑想で、様々なものを観察しあるがままを受け入れることですから、縁覚の悟りに近いと思います。

上座部仏教と大乗仏教の違い

この十界の考え方は「大乗仏教」が「上座部仏教」との違いを明確にするために、大乗仏教徒が考えたと言われています。
つまり、上座部の悟りは、声聞や縁覚までで、その上の菩薩は大乗のみが到達できる悟りというわけです。
(これは上座部が劣っている訳ではなく、悟りへのプロセスが違うということです。)


ただ、上座部の瞑想で吃音が改善するかと言うと、実際は難しい場合もあります。
なぜかというと、人が悟る力には個人差があり、無差別智のような悟りに至るまで、かなりの時間がかかることがあるからです。

実は、これは仏教自体にも言えることで、上座部の瞑想をして悟れるか?というと、本当に悟れるのは優秀な修行者だけで、一般的にはなかなか難しい部分もあります。だから、一般の在家仏教徒は、出家した僧に供養することで悟り得られるとされてきました。

それに対して、大乗仏教は、みんなで助けあいながら悟りましょう、という考え方です。人を救うから自分も救われるということですね。
これが、十界の中で「菩薩」と言われる境地です。慈しみを自分や他に向けることを言います。
吃音の臨床や、心理学に詳しい方ならもうお分かりかと思いますが、近年注目されている「セルフコンパッション」は
この大乗仏教の菩薩の考え方から来ています。
つまり、マインドフルネスは縁覚セルフコンパッションは菩薩の境地です。

慈悲の心が吃音を改善させる

さて、私が見てきた吃音を改善した人たちの特徴ですが、これが見事に当てはまります。
つまり、自分の吃音を治したい、ではなくみんなの吃音を治したい、とか
人の悩みを聴いて楽にしてあげたい、と思うようになった人が自分の吃音が改善するケースがほとんどなのです。
自分だけ治ればいい、と考えている人は変化しないのですね。
これは不思議なのですが、大乗仏教の考えかたを当てはめると納得できます。慈悲の心のある人が変化するのです。
また、アドラー心理学の中に「共同体感覚」というのがあり、これは人の幸せは全体への貢献であるというものなのですが、大乗仏教の思想と共に吃音改善に当てはまることが多いです。これもコンパッションに通じる考え方です。


無差別智は別の言い方をすると「智慧」とも言えます。
智慧は直観的に本物を見分ける力とされています。
そして、智慧を育てるのが「慈悲」と仏教では教えています。
まわりに思いやりの心を持つ→どうしたら皆を幸せに出来るか必死に考える→智慧を持つ→直観力によって吃音や自分や周りを観察できる→吃音が改善する。という訳です。

今回は、私が学び実践しているカウンセリングを仏教的に裏付けしてみました。
私は、心理学で言われていることと、仏教で言われていることが一致していれば
間違いないと思っていますし、ACTやセルフ・コンパッションを学ぶと、仏教がベースになっているのが良く分かります。

自然科学(医学)は本質的なことを答えられない

さて、話はちょっと蛇足になりますが、岡潔の話に戻りたいと思います。
岡潔は西洋の唯物主義に近い自然科学は間違っていると言っていました。

岡潔はこう言っています。

「例えば、自然科学では、視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。でも故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。」

これを吃音に当てはめると、遺伝や体質、脳の信号系の伝達異常があるから吃音になると医学は説明しますが、
そもそも人はなぜ話すようになったのか?なぜ生きていて話したいと思うのか?に関しては、医学では説明できないということです。

どうも現代人は、科学を「信仰」するようになってしまって、科学(医学)だけで物事を判断するようになっているように思えてなりません。
そして、吃音治療も、幼児の吃音については研究や対応が進んできていますが、
心理的要因の大きい成人の吃音に関しては、科学(医学)だけではお手上げのように感じます。実際、結果を出していませんね。
吃音が脳の異常であることは、脳科学で分かることですが、だからと言って、吃音の本質については何にも説明していない。物質的現象としてしかとらえていないと思います。
人として生きる本質を深く掘り下げる、心理学や宗教、哲学なども吃音改善には必要なのではないでしょうか?
と思う今日この頃です。

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