啓蒙活動について思うこと。

私は吃音当事者なので、身近な友人が吃音の啓蒙活動をしているのを知っていますし、応援もしています。(私自身は、吃音のカウンセリングに全力を注いでいるので、直接、啓蒙活動はしていません。)

先日「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」という本を読みました。心理学、日本の文化、仏教やマインドフルネスに造詣の深い、スタンフォード大学の心理学者、スティーブン・マーフィー・重松さんの講義を本にしたものです。
スタンフォード大学という一流大学でマインドフルネスをどのように教えているか?とても興味がありましたが、実際、内容は多岐にわたり、様々な角度からマインドフルネスをとらえていて、大変参考になりました。

その中で、マインドフルネスとは直接関係ないですが、伝説的な活動家で哲学者のグレーズ・リー・ボッグズの社会正義問題への関与の仕方についての考え方が書いてあり、なるほどと思いました。
「私たちこそリーダーだ」という章の部分です。以下、本文を抜粋します。

「現代は解決の糸口がまったくといてよいほど見えない問題に溢れ、そのうえ、自分が生き延びようとするだけでも大変な時間と労力を要するため、私たちは自分の中の現実を変える力を認めるよりも、自分を被害者だとみなしがちだ。
ボッグズはこの状況を理解したうえでなおも、そうした考え方をやめること、そして、皆がその問題の一部として関わっているからには、それぞれが解決の一部になるべきだとの認識をもつよう、一人一人に求めるのである。私たちは人種差別、性差別、資本主義、障害者差別などの犠牲者かもしれないが、決定論を乗り越え、自己決定を行うようにそれぞれが跳躍する必要があるという。人間は自由意志を持つとの考えを受け入れて行動することで、己の人間性に正直になり、それを高めていくべきだとボッグズは呼びかける。
被害者としての自分に執着して同じ場所に居座れば、自己の成長や成熟の可能性を拒絶することになる。それに薄々感づきながらも、人は被害者というアイデンティティにしがみついてしまう。不運を誰かのせいにして不安をいくらか和らげたとしても、結局それは自滅的行為にすぎない。現状を乗り越え、癒しを手に入れて前に進むのを妨げてしまうのだ。
仏教の教えでは、許すことができなければ、人は苦痛を核としてアイデンティティを作り続け、それが輪廻であり来世の苦しみとなるとされている。憤りや憎しみを避け、自分あるいは他の人々のこの世での苦しみを理解するには、思いやり、慈愛、喜びの共鳴、心の平静が必要だ。
私たちの内側や、他者との間など、多くのところに存在する私たちの相互のつながりに気づくべきだとボッグズは訴える。私たちは問題の一部でもあるのだから、自分とつながるのことが解決の一部となる。しかし、抑されている人々とも一つになれるなら、受け身の観察者を抜け出し、感情移入をした積極的参加者となることができる。
『自らの魂を試す時です。私たち一人一人が途方もない哲学的、精神的変容を遂げなければなりません。人間の精神・心・体の間に、体と精神的幸福の間に、また、私という自己と自国や世界のすべての他者の自己との間には、分かちがたい相互のつながりがあるという、思いやりのある認識へと目覚める必要があります。世の中に存在すると知っている苦しみに対して、受け身の観察者であるのをやめ、各々は苦しんでいる人々と一体でならなければなりません。』」

ちょっと難しい文章ですね。哲学者ですから。。
しかし、私は、この文章の中には「活動をすることによって、分断を生んではけない」というメッセージがこめられていると思います。
「障害者」や「吃音者」というレッテルを自分に貼るのではなく、たとえ差別されていたとしても、どこかでその人とはつながりがあり、その関係を切ってしまうと、自らの精神的な成長は止まってしまうかもしれません。
自分のことや立場を分かってもらうと同時に、相手のことを分かろうとする努力も必要かもしれません。
例えば、吃音に関しては我々は配慮される立場かもしれませんが、別の障害なら配慮する立場にまわるわけですし、同じ吃音者でも配慮して欲しい内容は変わると思います。
何にせよ、活動の元となるエネルギーが「社会への不満や恨み」から発するものならば、うまくいかないように思えます。
この状況から何かを学び、自分を変えていく意思も必要だと考えます。

実際、私の周りには「配慮して欲しい」とか「社会は私たちに配慮するべきだ」という考えの人と。「配慮は必要ない、健常者と同じ土俵で戦いたい」という人がいます。私は、どちらもアリだと思いますが、強いて言えば「中道」(どちらにも極端に傾かないニュートラルな考え方)がよいのではと思います。

ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)には、「チェスボードのメタファー」という比喩があります。
チェスはお互いに争うゲームですが、自分の意識はチェスの駒でなく、チェスボードに置くというものです。
これは、争いや対立、立場の違いを離れたチェスボードというところから自分を観察するという意味があります。

とはいえ、実際問題として啓蒙活動や合理的配慮は必要です。何よりも、幼児の吃音は環境に大きく左右されるので、悪化を防ぐことができます。
成人の場合は、配慮+自己の変容の両方が必要でしょうか。自分の思うように配慮してもらえるとは限らないので、自分を変えていく努力は必要だと思います。

「私という自己と自国や世界のすべての他者の自己との間には、分かちがたい相互のつながりがあるという、思いやりのある認識へと目覚める必要があります。」
このボックスさんの言葉にすべては集約されているように思えます。

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