佐伯祐三と、撮るマインドフルネス。

もうだいぶ経ってますが、3月18日に東京駅ステーションギャラリーで「佐伯祐三展」を観てきました。
どうして今頃書くかというと、YouTubeで山田五郎さんの「大人の教養講座」で「生き急いだ天才。佐伯祐三が描いた絵にならないはずの風景。無有好醜。」という動画を今日観たからです。
私はこの「絵にならないはずの風景。」という言葉に惹かれました。



この動画には「美しくないものへの執着」という副題が付いています。
普通、絵は美しいものを描きますよね?
でも佐伯祐三は名所やきれいな風景は描かずに、パリの公衆便所を描いたり、汚れた壁に貼ってあるポスターを描いたりしたのです。



佐伯祐三の実家は浄土真宗の有名なお寺だそうです。
当然、親鸞の教えは知っていたでしょう。
その親鸞の教えの中に「無有好醜」というものがあるらしいのですね。
これは「きれいだとか醜いものはない」と言う意味です。
逆に言うと「どんなものもキレイ」だと言うことなんですね。
画家からすると絵にならないものはないということです。

これは「撮るマインドフルネス」の考え方と同じです。
と言うか、私が小学生の頃から佐伯祐三の絵が好きだったから、知らないうちに影響されたのかもしれませんが。(笑)
私たちは、これはきれい、これは汚いと「概念」で判断しています。
これは言わば「思考」や過去からの経験、人から与えられた価値観だったりします。
本当に自分で感じたものかどうか怪しいものです。
ACTの「概念としての自己への囚われ」に通じるかもしれません。

花は確かにきれいです。
でも、私はコンクリートの壁のシミ、込み捨て場のシートの中にも美しいものがあるのではないかと思っています。
実際、写真に撮るとよく分かります。花のような綺麗さはないですが、独特の味わいがあったりします。
ただ、街中で撮っていると変なオジサンに見られてしまいますが、、。(笑)

以前クライアントさんに、撮るマインドフルネスをお願いし、空を撮ってもらったら、最初は「電線が邪魔だ」と思ったと仰っていました。でもよく見たら「電線が入った空もキレイだな」と感じたそうです。私はこれを聞いてハッとしました。
これは「心理的柔軟性」だと思います。
この「電線があっても以外ときれいだな」という感じ方は「吃音があってもいいよな」と感じることに繋がるのです。

少し前に、Twitterで「吃音は個性か?」で様々な投稿がありました。
勿論、とても悩んでいる人に対して「吃音は個性だから気にしないで。」と押し付けるのは間違っています。
ただ、これに「無有好醜」の教えを当てはめてみると、流暢だとかどもっているとか違いはない。どちらも尊い。ということになりませんか。
どもっているから恥ずかしい、良くないことだ、という考えは、自分の中から湧き出たものではなく、人から与えられた価値観だと思います。
だから吃音は対人関係が刺激となり発症するのです。(動物相手だとどもりませんね。)

まず、人はどうであれ自分は本当は何を感じているのか?自覚していくところに吃音の改善は見えてくると思います。

大画家の佐伯祐三と同じにしてはいけませんが、「撮るマインドフルネス」も日常の中に美しいもの、ハッとするものを見つけ、心理的柔軟性につなげていく重要なプロセスだと感じています。

今週の金曜日は、東京言友会の例会でACTのセミナーを行う予定で、撮るマインドフルネスについてもお話します。
ご都合がつけばぜひお越しください。東京都障害者福祉会館18時半からです。

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