「鬼滅の刃」上弦集結、そして刀鍛冶の里へ、を観て。

またまた鬼滅の刃について書きます。
内容は「遊郭編」の第10、11話と「刀鍛冶の里編」の第1話です。
映画を観に行ったとき、私は完全に刀鍛冶の里編からだと思っていたので肩透かしでしたが、考えてみればこれからテレビで放映されるのですよね。早とちりでした、、。(笑)

今日書きたい内容は、「遊郭編」に出てくる上弦の陸、堕姫と妓夫太郎の妓夫太郎についてです。
勿論、吃音やACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)についても書きます。そこが大事ですから。

闘いの後半で、柱の宇随天元、我妻善逸、伊之助らはすでに倒れてしまい、闘いは炭治郎と妓夫太郎の一対一になっていしまいます。
妓夫太郎は上弦の鬼なので炭治郎に勝ち目はありません。けがをしてすでに戦えない状態の炭治郎に、妓夫太郎はこう語りかけます。

「みっともねえな」「みっともねえな」「兄貴だったら妹(禰津子)に守られるんじゃなく守ってやれよなあ この手で」
「虫ケラボンクラのろまの腑抜け」
としつこく語り掛けます。。
このおしゃべりをやめない理由は、自分が妹の堕姫を人間だった時に守ってやれなかった後悔があるのだと思います。

「虫けら ボンクラ のろまの腑抜け 役立たず 醜い声や容貌を嘲られ汚いと言って石を投げられた この世にある罵詈雑言は全て俺のために作られたようだった」
後で妓夫太郎はこう述懐しています。

つまり、このおしゃべりは妓夫太郎が自分に対して言っているようにも思えます。
自分が自分にたいして「まぬけ」「みっともねえ」と言っているのです。



どうでしょうか?私たちは自分に対してこういった言葉をかけていることはありませんか?
ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)に於いて、これは「マインド」や「思考」「ボリュームゼロのおしゃべり」とも言われます。

誰でも自分に対してこうしたおしゃべりをしているのです。人間なら例外はありません。
特に吃音の場合、話さなければならない場面でこの「マインド」が出て来ます。
それを「予期不安」といいます。吃音の症状が出たあとは「後悔」が待っています。
これらもすべてACTの立場からすると「マインド」です。
妓夫太郎が過去に人に言われた「虫けら ボンクラ のろまの腑抜け 役立たず 醜い声や容貌を嘲られ汚いと言って石を投げられた」その「言葉」が体験として蘇り、自分を傷つけるのですね。

では、私たちはそんな時どうしたらよいのでしょうか?

ひとつ大事なのは、それは「今」起こっていることではない。過去の記憶に過ぎないということです。
記憶が直接私たちを傷つけることは出来ませんが、それをあたかも「今」起こっていることのように感じてしまうことに問題があるのです。
その状態を、ACTでは「フュージョン」と言います。
そして、そこから抜け出すことを「脱フュージョン」と言います。
ACTに於いてそれは「マインドフルネス」です。

今日はここまで。

ブログランキングの応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 吃音症・言語障害へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です