なぜ人前で話す恐怖の中で生き続けるのか |メーガン・ワシントン|TED×Sydney


メーガン・ワシントンさん。吃音者であり、オーストラリアの歌手です。
先日Facebookの吃音のグループでこの動画をシェアしてくれた人がいて、たまたまこの動画を観ました。
私はあまり吃音関係の動画は見ないほうなのですが、このスピーチには心打たれました。
私自身はもう吃音では全くと言っていいほど悩んではいないので、この方に同感するとか、吃音者だから共感するとかいう感覚はほとんどありません。
でもなぜ心打たれるか?は、自分に正直に真っすぐに生きているのが伝わってきたからです。
それは動画を見ていただければお分かりかと思います。

私がカウンセリングのベースにしているカールロジャーズの著書に次のような文章があります。
「もし自分の経験に対して十分にオープンになることができるならば、あらゆる刺激――有機体の内部から発生したものであろうと、外部の環境から発生したものであろうと……自由に神経系統に伝達されるであろう。そのときには、「潜在知覚」(subception)――有機体が、あるいは経験が自分にとって脅威的なものだと警告される――といったメカニズムを用いる必要はなくなるであろう。」(Rogers(1963))。

つまりロジャーズによれば、人は心配なことや不快なこと(例えば吃音)に対して、ちゃんと受け止めないか、あるいは無視することによって、身を守るという行動をとることがある。しかし、そうすると周りとの人間関係や心身の不調等、様々な不適応が生じている。ロジャーズは、こうした不適応から脱するためには、その人が感じている本当の気持ちに気付く、オープンになることが必要であり、そうすることによって主体的な生き方に転じることができると言っているのだと思います。

また「オープンになることによって、その刺激が、環境からのかたち、色彩、音といった形態が感覚神経に影響を与えるものであろうと、あるいは過去からの記憶の痕跡であろうと、または恐ろしい、楽しい、嫌だといった内臓的な感覚であろうと、その人はそれをそのまま「生きる」(“living”it)であろうし、そうした刺激を完全に受け入れることができるであろう。
その人はまた、勇気とか、やさしさだとか、畏敬といった自分の感情にもっとひらかれるようになる。その人は、自分のなかにあるがままにその感情を自由に、主観的に生きることができるようになり、またこうした感情を自由に意識に受け入れることができる。その人は、有機体の経験していることを、意識から排除してしまうのではなく、それをもっと十分に生きることができるようになるのである。」(Rogers(1963))。
と言っています。

実は仏教も似たようなことを言っています。
仏教では、つらく受け入れ難い場合に対し、人は三つの選択をすると言っています。
①無視する、なかったことにする。
②都合の悪いこととして、追い出す。
③ちゃんと向き合って仲良くする。

仏教は③なのです。
「苦しみに向かってやるべきことは、相手をよく知ることである。」とお釈迦様は仰いました。
いかがでしょうか。ロジャーズの考え方に似ていませんか?
また、私はACTというマインドフルネスをベースにした認知行動療法を始めましたが、これも同じ考えです。
実は、①と②を行うと、症状が悪化することが多いのですね。
吃音も、なかったことにしよう、無視しよう、追い出そう、排除しようとしていると
そこに大きなエネルギーを使ってしまいますし、その結果として悪化することがあります。
一人でもどもる人はたまにいますが、私は②の意識が強いまま音読などの練習をするとロジャーズのいう「オープン」な状態の
逆の方向に行ってしまうので、症状が悪化することがあると思っています。

メーガン・ワシントンさん、最後で歌を歌ってくれますが、その最後の歌詞は
「教えて欲しいの、どん底でも希望はあるの?
知りたいの、教えて欲しいの。
私のすべてをあなたが奪ってしまうかを。
選ぶことも、手放すことも出来ない。」

苦しみが伝わってきますね。でも歌として昇華しています。
人を感動させています。

彼女は、歌によって救われていると思います。

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