東洋哲学の本『自分とかないから』を読んでみた(その②)

前回は、ブッダから龍樹まで書きました。今回はどこまで書けるか分かりませんが、老子と荘子から始めてみます。
私はカウンセリングでマインドフルネス瞑想を取り上げることが多いので、ブッダや「空」の哲学に触れる機会は多いのですが、老子と荘子については、ほとんど知りませんでした。なので、この本が私にとって事実上「道(タオ)」に最初に触れる体験になります。
今まで書いてきたブッダや龍樹はインドの人です。そして、これから書く「道(タオ)」は中国の哲学です。
実は、「空(くう)」と「道(タオ)」は、「この世界はフィクションだ」ということや、「すべてのものはつながっている」という点では共通しています。
もっとも、インドと中国は隣国ですので、何らかの思想の交流や影響があったと考える方が自然かもしれません。
しかし、「空(くう)」と「道(タオ)」は内容が似ている一方で、最終的なゴールは大きく異なります。
「空(くう)」は「解脱」がゴールです。この世(娑婆)は苦しみの世界であり、二度と生まれ変わらないように修行します。
それに対して、「道(タオ)」は、今の人生をいかにうまく生きるか、というための哲学です。
ありのままを説いた老子
最近、「ありのまま」という言葉をよく耳にしませんか?
マインドフルネス瞑想や禅、心理学の分野でも頻繁に使われています。
この「ありのまま」を最初に説いたのが、老子なのだそうです。
人生の大半を無職で過ごした荘子
荘子は、老子の約100年後に登場した人物ですが、その思想は老子にとても近いものがあります。
そして荘子は、なんと生涯のほとんどを無職で過ごしたと言われています。
その話を読んで、私はさくらももこさんの『コジコジ』を思い出しました。
先生「勉強ができなければ、この先、生きていけないぞ」
コジコジ「コジコジは死なないよ。だから生きていけるよ」
先生「毎日いったい何をしてるんだ」
コジコジ「空を飛んだり、山で遊んで、おやつを食べて、寝てるよ」
先生「毎日、遊んで寝てるだけじゃないか」
コジコジ「え? 悪いの? 遊んで食べて寝てちゃダメ?」
コジコジ「コジコジはコジコジだよ。生まれたときから、この先もずっとコジコジだよ」
コジコジについては、以前こちらにも書いています。
これは、究極の「自己肯定感」だと思います。
赤ちゃんや猫と同じで、何もしなくても、何の役に立たなくても、自分には価値があると感じられることです。
余談ですが、最近「ねこ肯定感」という名前のぬいぐるみを見かけました。とても良いネーミングだと思います(笑)。
現実も夢も同じ
「道(タオ)」の前では、現実と夢の境目があいまいになります。
この本で紹介されている荘子の有名な逸話に、「胡蝶の夢」があります(胡蝶とは、ちょうちょのことです)。
簡単に言うと、「荘子がちょうちょになる夢を見た。自分がちょうちょになる夢を見ていたのか、それとも、ちょうちょが自分になる夢を見ていたのか、分からなくなった」という話です。
私はこれを読んで、映画『マトリックス』を思い出しました。あの映画も、「現実」と「マシンが作り出した幻想」のどちらが本当なのか分からなくなりますよね。
格闘シーンにカンフーが取り入れられている点から見ても、かなり東洋思想を意識しているのではないでしょうか。
「道(タオ)」の哲学では、「現実」と「夢」は同じようなものなのです。
では、「道(タオ)」が人生の役に立つとは、どういうことでしょうか。
それは、「人生はスペックの戦いではない」と知っていることだと、私は思います。
私たちは、肩書きやスペックをとても気にします。「年収はいくらか」「年齢は」「見た目はどうか」などです。
そして、その情報をもとに人にレッテルを貼ります。
これらはすべて、人との比較です。比較は、どこかで差別や上下関係を生み出します。
誰かを見下す人は、どこかで誰かに見下されていると感じています。優越感と劣等感は表裏一体なのです。
私自身、カウンセリングを受け始めた頃は、比較的症状が軽いほうだったこともあり、人と自分の吃音の重さを比べて、わずかな優越感を覚えた時期がありました。
しかし修了する頃には、それは消え、吃音で人の優劣を決めることはなくなりました。同時に、劣等感もほぼ消えていました。
「道(タオ)」を学ばなくても、もともと身についている人がいます。
そういう人は人に優劣をつけませんし、そうしたことにとらわれないので、背伸びをしたり、自分を大きく見せようともしません。
いわゆる「あるがままでOK」な人です。
「あるがままでOK」とは、現実の自分でOKだということです。
心理学者カール・ロジャーズの理論に「自己理論」があります。これは、「こうなりたい自分」「こうでなければならない自分」と、現実の自分とのズレが大きいほど、心理的な問題が大きくなる、という考え方です。
吃音でいえば、実際には吃音者であるにもかかわらず、「流暢に話さなければならない」という思いが強すぎると、悩みが大きくなる、ということです。
廣瀬努先生は、「あなたたちは吃音者なのに、どうして吃音者ではないように振る舞うのですか?」と仰っていたそうです。
これは、まさに「自己理論」の話だと思います。
この本では、背伸びをせず、自分を大きく見せようとしない人のことを、「メチャ普通なのに、なぜかうまくいく人」と表現しています。
肩の力が抜けている人、と言ってもいいかもしれません。
実は、「普通でよい」という感覚が重要だという点は、近年、吃音の支援でも注目されている「セルフ・コンパッション」の考え方とも重なります。
私たちが自己批判しやすいのは、「普通ではダメで、人より優れていなければならない」と思い込んでいる人が多いからだ、と言われています。
ただ、生まれつき「道(タオ)」を身につけている人はよいのですが、そうでない人はどうすればよいのでしょうか。
そこが、「道(タオ)」には具体的な修行体系が分かりにくい部分でもあります。(この本によると)
そこで、次に登場するのが「禅」です。
禅 ――達磨の哲学
どうしたら「空(くう)」や「道(タオ)」の境地にたどり着けるのか。
その一つの答えが、「禅」です。
「考えるな、感じろ」という言葉を聞いたことがありますか? ブルース・リーの言葉として有名ですが、これは東洋哲学、中国文化、そして禅を象徴する言葉だと思います。
達磨大師はインド人ですが、中国に禅を広めるためにやってきました。
そのときの中国の皇帝との会話がとても面白いのですが、ぜひ詳しくは本を読んでみてください。
結論だけを言えば、その会話のポイントは「言葉を捨てろ」ということです。
この大自然の森羅万象を、言葉にした瞬間、それは嘘になってしまう、という感覚です。
強く感動したとき、「言葉にならない」と言いますよね。オフコースの歌にも「言葉にできない」というフレーズがあります。
言葉は、あくまで記号やシンボルです。もっと複雑で奥深い森羅万象を、言葉で正確に表すことは、もともと不可能なのです。
そして、言葉にした瞬間から、誤解やズレが生まれてしまいます。
ACTには、「概念としての自己」から「文脈としての自己」へと移行するプロセスがあります。
「概念としての自己」とは、「私は○○だ」という言葉による自己理解です。
たとえば、「私は明るい性格だ」という自己像に強くとらわれていると、落ち込んだときに明るく振る舞えない自分を許せず、自己批判を繰り返すことになります。
森羅万象の一部である、神秘的な存在としての私たちを、言葉で定義すること自体が無理な話なのです。
そこでACTでは、言葉ではない「感覚」を大切にします。
マインドフルネス瞑想は、感覚から入ってくる情報を、ありのままに受け取る練習です。
これを続けていくと、「概念としての自己」への執着がゆるみ、「文脈としての自己」という、より広がりのある自己感覚に触れることができます。
マインドフルネス瞑想の創始者であるジョン・カバットジン博士が禅の修行者であることを考えると、非常に納得のいく話です。
先ほど、「禅」のポイントは「言葉を捨てること」だと書きました。
この本では、その考えを体験的に示す、面白い試みがなされています。
それが、3ページまるまる白紙なのです。
これは、言葉を捨てるということでもあり、「本をありのままに見る」という体験でもあります。
本は通常、言葉を印刷し、意味を伝えるためのものです。
しかし先ほども書いたように、「言葉はフィクション」です。私たちは、知らず知らずのうちに言葉の魔法にかかっています。
もちろん、だからこそ小説を読んで、フィクションの世界を楽しむこともできます。
そのとき、本は「物」ではなくなり、私たちは完全に言葉の世界に入り込んでいます。
そして、本を閉じれば、その世界は一瞬で消えてしまいます。
では、「本をありのままに見る」とは、どういうことでしょうか。
それは、フィクションではなく、「現実」を感じることです。
紙の色、質感、重さ、ページをめくる音、紙のにおい。
そのとき、言葉の魔法は消えているはずです。
言葉の魔法が消えると、すべてがつながり始め、自分と宇宙がつながっているような感覚が生まれます。
ざっくりいうと、これが禅でいう「悟り」の状態だと思います。
もちろん、これは一瞬の体験であり、禅の修行者は、この状態にある程度長くとどまることができたり、自分の意思でその状態に入ることができるのだと思います。
この白紙のページを体験して、私は現代音楽家ジョン・ケージの『4分33秒』という作品を思い出しました。
これは、ピアノの演奏者がスタンバイしたまま、4分33秒間、何も演奏しないという作品です。
ジョン・ケージは、鈴木大拙という禅の指導者の影響を受けていたそうです。
そう考えると、この白紙の本と、とてもよく似た発想だと思います。
4分33秒のあいだ、音楽を聴くのではなく、自分のまわりの音を聴く体験をしてほしかったのでしょう。
鈴木大拙については、以前こちらに書いています。
では、「禅」はどのように私たちの役に立つのでしょうか。
しんめいPさんは、「ピンチのときに言葉を捨てる」ことを実践しているそうです。
たとえば、「自分はダメだ」という言葉にとらわれ、その言葉の魔法にかかって、仕事が進まなくなる。
そこで、「あ、今、言葉の世界に入っているな」と気づくだけで、状況が変わってくる。
これはACTでもまったく同じ考え方です。
「私には価値がない」といった否定的な言葉が頭に浮かんだとき、その言葉の影響をそのまま受けないようにします。
私はカウンセリングの中で、よくエクササイズを行います。
「私には価値がない」という言葉が浮かんだら、「ワタシニハカチガナイ」とカタカナに変換してみる。
さらに、「watasiniha kachiganai」とローマ字にしてみる。
それだけで、言葉の影響は弱まります。
他にも、「ドナルドダックの声で言ってみる」「ハッピーバースデーのメロディに乗せてみる」「早口で何度も繰り返してみる」など、さまざまな方法があります。
一見おかしなことをしているようですが、世界中のACT研究者が真剣に研究し、その有効性が確認されている方法です。
だいぶ長くなってしまったので、今回はこのあたりで。
次回はいよいよ、日本人である親鸞と空海について書いてみたいと思います。

