東洋哲学の本「自分とかないから」を読んでみた(その3)

少し間が空いてしまいましたが、次は親鸞と空海について書いてみます。
このシリーズの最終回となります。


他力──ダメなやつほど救われる:親鸞

仏教哲学は、インドから中国に伝わり、日本にやってきます。
私たちは日本の仏教しか知りませんが、実はこの間にかなり変化しています。
この本『自分とかないから』では「クラッシック仏教からヒップホップにしてしまった親鸞」と表現しています。
そのくらい大きな変化があったということですね。

「空」というのは大乗仏教の大事な概念ですが、その「空」にいたる道筋は宗派によって異なります。
親鸞は「浄土真宗」という宗派を開き、一つの道筋を示しました。

実は私の実家も浄土真宗でした。(「でした」というのは、今はお墓の事情などがあって「曹洞宗」に変わっているからです。)
檀家の多い、非常になじみのある宗派ですね。


あえて学ばなかった親鸞

ちなみに、私は親鸞の哲学については、わざと学ばないようにしてきました。
理由は「深い」からです。中途半端に学ぶと、誤解してしまう恐れがあると感じていました。

でも今回は、この本の解釈を元に書いてみます。

では、親鸞のどこがすごいのか?
それは、親鸞の生きた時代背景が大きく関係していると、この本には書いてあります。

天災や飢饉が多く、多くの人が飢え死んでいく時代。
親鸞は比叡山で修行したエリートでしたが、この民衆を救うためにはどうしたらよいかを考え抜いたのだと思います。

そして、たどり着いたのが「他力」の哲学です。
それまでの仏教は、瞑想や座禅、教学を学ぶことが中心でしたが、飢えている大衆にはそれができません。
当時の大衆にとって、仏教は難しすぎたのです。


悪人正機説と「どうしようもなさ」

親鸞の教えで有名なものに「悪人正機説」があります。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

現代文に訳すと、
「善い人でさえ阿弥陀仏によって救われる。ましてや、自分のどうしようもなさを知っている人が、救われないはずがない。」
となります。

分かりやすく言うと、
「どうにもならない自分だと心の底から知ったとき、その地点こそが、救いがはたらく場所である」
という意味です。
決して「悪人のほうが救われる」という意味ではありません。

ここまで書いてきて、自分の体験から当てはまることがいくつもあることに気づきました。

私が「自分が変わったな」と思えたとき、その前には必ず、自分のどうしようもなさに絶望する体験がありました。
自分というアイデンティティが崩れ落ち、それまでのプライドが、自分への絶望に変わったときです。

すると、不思議なことに、周りの人たちに対して
「こんな自分で申し訳ない」という感謝の気持ちが芽生えてきました。
(感謝は「謝るを感じる」と書きますからね)

プライドやアイデンティティという鎧が崩れ落ち、裸になった、ありのままの心地よさ。
その後、自然と変化している自分がいました。


吃音と他力の感覚

私はよく「どうして吃音がよくなったのですか?」と聞かれます。
今から考えると、この繰り返しがあったからだと思っています。

吃音は、「人からよく思われたい」という欲から生まれるとも言えます。
自分に絶望してしまえば、その欲は消え去るからです。

この本には、次のような一節があります。

会社とか学校で、プチやらかしてしまったとき、全部終わったと泣きそうになりながら、家に帰る途中に見た夕陽。異様にしみる現象。ダメがきわまって、夕陽がしみ込んできた瞬間、自分という感覚は消えてしまっていないだろうか。

私の感覚も、これにとても近いと思います。


「ただ信じる」という難しさ

親鸞のもう一つの哲学は、「阿弥陀仏の救いを、ただ信じる」ことです。

禅のように、自分から悟ろうとすることは自力であり、そこには
「悟ろうとしている自分はすごい」という慢心が入り込む。

他にすがる「他力」に徹したとき、自分は消えている──という考え方です。

ただ、「ただ信じる」というのは、とても難しいことだと思います。
人はすぐに「悟りとは?」「どうしたら悩みをなくせるか?」と考えてしまい、
「すべてをゆだねる」ことに強い抵抗を感じるからです。

別の言い方をすれば、これは「バカになる」こととも言えます。
しかし、人は誰でも「自分はバカじゃない」と思っていて、考えることをやめられませんよね。

それでも、当時の民衆にとっては、とても分かりやすく、大きな救いだったのだと思います。
難解で、大衆の救いから遠ざかっていた当時の仏教を大きく変えた、親鸞の功績は本当に素晴らしいと思います。


欲があってもよし──空海の哲学

最後は、真言密教の開祖「空海」です。

仏教は大きく分けると、
初期仏教 → 大乗仏教 → 密教
と進化してきました。

つまり、密教は仏教の最終形態です。

では、密教を一言で言うと……

これこそ「言葉にできない」ものだと思います。


顕教と密教の違い

大乗仏教は、大きく「顕教」と「密教」に分けられます。

  • 顕教:文字で表される教え。お経などを読んで「分かる」教え
    • 日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗 など
    • (ただし、顕教の中にも密教的要素はあると私は思っています)
  • 密教:文字で表せない教え。師について修行し、体験を通して「分かる」教え
    • 日本では主に真言宗・天台宗

空海と最澄──理趣経をめぐる逸話

密教を頭で理解しようとしてはいけない、という有名な逸話があります。
それが、空海と天台宗の開祖・最澄との確執です。

二人は同時代に遣唐使として唐に渡り、最新の仏教を日本に持ち帰りました。
その一つが密教です。

語学に長けた空海に対し、最澄は密教だけでなく幅広く仏教を学んでいたため、
密教の修行は十分ではありませんでした。
帰国後、最澄は空海に弟子入りし、灌頂(密教の入門儀式)を受け、多くの経典を書写して学びます。

しかし後に、最澄が「理趣経を借りて研究したい」と願い出た際、
空海はこれを強く拒否します。

理趣経は「読んで理解する教えではない」。
身・口・意(身体・言葉・心)を使った実践と師資相承が不可欠で、
文字だけ渡すことは、仏法を壊すことになる──
それが空海の考えでした。


体験して「分かる」ということ

これは、これまで書いてきた「言葉を捨てる」ことにも通じます。

お経は言葉です。
言葉で理解しようとすると、逆に「言葉の魔法」にかかってしまうこともあります。

まずは体験して「感じる」こと。

例えば、美味しいりんごについて書かれた本をいくら読んでも、その美味しさは分かりません。
実際に手を伸ばして食べるしかないのです。

密教では、師匠と同じ生活をし、同じ修行をすることで、同じ心を会得すると言えます。
それが「身口意」──師匠と同じ行動、言葉、心になる、ということです。


なりきる力

これを日常生活に当てはめてみましょう。

例えば、「笑顔で人と話せるようになりたい」と思ったとします。
最初は難しく感じるかもしれません。

しかし、それを続けていくことで、やがて本物になる。
最初はメッキでも、何度も重ねれば本物の金になる──という考え方です。

この本では、ウクライナのゼレンスキー大統領のエピソードが紹介されています。

コメディアンだった彼が、ドラマで大統領を演じ、
行動・言葉・心が「大統領」になりきった結果、
実際に大統領になってしまった。

「なりきる」ことのパワーです。


欲を肯定する密教

密教のもう一つの特徴は、「欲を肯定している」ことです。

一般的な仏教では、煩悩として「欲を捨てろ」と言われます。
しかし密教では、「欲」を肯定します。

ただし、それは個人的な欲ではありません。
「自分がよくなりたい」ではなく、
「世界中の人と、みんなでよくなりたい」という大きな欲です。

私は、吃音のカウンセリングの中で、
「自分のことより、皆が喜ぶことが本当にうれしい」と話していた、
重い吃音を持つカウンセラーを知っています。
その方は、かなり改善しました。

私自身の改善のプロセスも、これに沿っていると思います。

真言宗の根本経典の一つ『大日経』には、

菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究極となす

とあります。
密教は、人を救うためにあるものだと思います。


おわりに

いかがでしたでしょうか。

この本を読みながら、自分の考えや体験、吃音について交えて書いてきましたが、
改めて、自分の背景には東洋哲学が深く染みついていると感じました。

吃音の臨床においては、脳科学や遺伝子学の発達によって西洋科学的な考え方が進む一方で、
心と体を一体として捉える東洋的な視点も、今後さらに広がっていくと思います。

それは、近年のマインドフルネスやセルフ・コンパッションが示しているところでもあります。

ぜひ、この本を手に取って読んでみてください。
このブログより、きっと面白いはずです(笑)。

東洋哲学を学び、「自分とかないから」を実感することで、
皆さんが人生を前に進めていけることを願っています。

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