東洋哲学の本『自分とかないから』を読んでみた(その①)

はじめに
皆さん『自分とかないから』という本をご存じでしょうか?
サブタイトルは「教養としての東洋哲学」、著者はしんめいPさん。
東大卒のあとニートになり、人生につまずいた著者が最後に頼った「東洋哲学」を、かなり“素人目線”で分かりやすく書いています。
「素人目線」と聞くと不安に思うかもしれませんが、京都大学名誉教授・鎌田東二先生が監修されているため、内容は本流に沿ったものだと思います。
著者が東洋哲学に救われた理由
しんめいPさんは挫折のあと自己啓発書を読みましたが、うまくいかなかったそうです。
次に西洋哲学へ進むも抽象的すぎて「どう生きたらいいか?」が分からず、虚無感に襲われたといいます。
最後に出会ったのが「東洋哲学」でした。
東洋哲学は「本当の自分とは何か」をテーマにしながら、「どう生きればよいか?」に具体的なヒントを与えます。
つまり“楽になる哲学”。そのおかげで虚無感から抜け出せたそうです。
私がこの本に興味を持った理由
私が興味を持ったのは、カウンセリング技法であるACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)が、仏教をはじめとする東洋思想の影響を強く受けているからです。
特に「空」の思想をクライアントさんに伝える際のヒントになると思いました。
(もちろん“空”は言葉では説明しきれないものですが……)
ここからは本書をもとに「東洋哲学とACT、そして私たちの悩み」について書いていきます。
ブッダの哲学──「自分なんてない」
身体は入れ替わり続けている
普通は、「自分はここにある」と思っていますよね。身体があるし、意識もある。
けれども、ブッダは「それは本当か?」と疑問を投げかけます。
例えば、私たちの身体は、分子で出来ていますが、これは数か月で入れ替わります。つまり、物質として入れ替わっている。また、なにかを食べて生きているので、食べ物の分子が身体を構成している。私たちの身体は、自分以外のもので出来ているのです。
また、それが巡り巡ってすべてのものや生き物と繋がっている。
つまり、私たちはこの宇宙の一部であり、確固とした「ここからここまでが自分」というものはないと言うわけです。
思考や感情も流れ続けている
では心はどうでしょう?
「思考」をよく観察すると、湧き上がってくるものであることが分かります。
例えば、ディズニーランドの写真を見て「これから遊びにいきたいなー」と思ったとして、それは自分が「遊びに行こうと考えよう」と意識して思ったわけではなく、写真を見て自然にそういう考えが湧き上がったといえます。
つまり、「こうしよう」という自分の意志があって、そう考えたわけではなく、外からの情報(つながり)によって、そう思わされたとも言えます。
「私はハンバーグが好き」という人も、たまたま今までおいしいハンバーグに出会ったからであって、外とのつながりが変われば(不味いハンバーグを食べたりしたら)、簡単に変化していきます。
同じく感情も自然と湧き上がってきます。感情も自分ではコントロールできません。
「縁起」によって、私たちは変化していく、だから確固とした「私は」存在しません。
ブッダは、瞑想により「これが自分だというものはない!」と結論付けました。これが「無我」です。
無我とACTの関係
苦しみの原因は、本来は「無我」で流動的はもの(無常)なのに、無理して「これが自分だ」というものを作ろうとするからだと説きました。
ACTには、思考を観察するエクササイズがありますが、思考を観察するといずれ消えていくのが分かります。
感情も同じです。つまり、確固とした思考を持った「自分」は存在せず、それを「ただ見つめる自分」だけがいることになります。
ACTでは、それはを「観察する自己」とか「文脈としての自己」「場としての自己」と言います。
この自己は、思考や感情に振り回されないので、安心で安全です。
多分ですが、上座部仏教(お釈迦さまの時代を忠実に守っている宗派)の修行僧はこの境地を目指しているのだと思います。
龍樹の哲学──「この世はフィクション」
難しくなりすぎた仏教を救った「空」
しかし、仏教はその後ブッダの教えの解釈をめぐって、大論争になり、難解になっていきました。
また、この「無我」という境地に至るのは非常に難しく、インドで仏教は衰退しそうになりました。
そこで現れたのが「龍樹」です。
龍樹は、700年続いた論争に結論を出しました。それが「空」です。
この「空」の哲学によって、一部の出家者のものだった仏教が大衆のものになりました。
それを「大乗仏教」といいます。「誰でも乗れる、大きな乗り物」という意味ですね。
「空」は分かりにくい哲学ではありますが、この本では「ミッキーマウス」を使って、とても分かりやすく書かれています。
ミッキーマウスは「いる?いない?」
ミッキーマウスはいるでしょうか?本当はいないですよね?
でも、私たちの一つの概念としては存在しています。ゴジラや仮面ライダーやウルトラマンも同じです。
例えば、私たちはゴジラの映画を見た時に、映画の中に入り込み、本当にゴジラがいるように錯覚します。
映画では、その錯覚を楽しんでいるのですが、ACTではそれを「認知的フュージョン」といいます。
現実とイメージが融合しているという意味です。
これは、映画を楽しんだり、本を読んだり、それこそディズニーランドに行ってミッキーマウスに合うのには良い能力なのですが、自分のネガティブな体験と結びついた時にマイナスに働きます。
例えば、吃音者ならどもって人に笑われて恥ずかしい体験をした時のイメージが残っていて、同じようにどもると、実際にはそんなことはないかもしれないのに「笑われる、恥ずかしい!」というイメージが張り付いてくるのです。
ACTには、その「体験」や「現実」と「イメージ」や「思考」「感情」を分けられるようにする、「脱フュージョン」というテクニックがあります。(脱フュージョンについては、このブログのACT関連をご覧ください。)
世界は「言葉」が作っている
例えば、「椅子」という言葉を聞くと、私たちはすぐに自動的に「座るもの」と思ってしまう。
すると、それ以外情報が入ってこなくなります。
例えば、椅子の美しさや色合いなど、、、。
また、「この人は東大を出ている」と聞いたとしましょう。
すると自動的に「頭がいい」「いい会社に就職してるのでは」と考えます。
でも、実際には著者のしんめいPさんのように挫折しているかもしれないのです。
このように言葉は便利だけど「現実」を見極めるにはデメリットもあるわけです。
これをしんめいPさんは「ことばの魔法にだまされる私たちはチョロすぎる」と書いています。
「言葉の魔法」については、こうも書かれています。
例えば、「彼氏」と「彼女」という言葉も幻です。
なぜなら、「彼氏」は「彼女」がいて初めて成り立つ存在だからです。
「彼氏」という人間は現実には存在しない。「彼女」との関係性のなかで初めて出てくる概念なのです。
同じく「父」と「子」。「会社」と「社員」も関係性の概念です。
ちなみに行動分析学では、これらはすべて「言葉」を操る人間だけに出来ることで、動物には出来ないとされています。
ではなぜ、空が大事なのか?についてですが、それは私たちはともすると、言葉の「概念」にとらわれた生活をしてしまうからです。
ACTには「文脈としての自己」の対極として「概念としての自己」というものがあり、これが龍樹いう「言葉にとらわれていることに」つながります。
つまり、「私は○○だ」という自己像は誰にでもあるものですが、それが強すぎると狭い檻の中に自分を閉じ込めてしまいます。
例えば「私は明るい人間だ」という自己像が強すぎると「暗くなってしまったからだめなんだ」と自分を責めてしまいます。
また先ほど、「苦しみの原因は、本来は無我で流動的はもの(無常)なのに、無理してこれが自分だ、というものを作ろうとするからだ」というブッダの言葉を書きましたが、これも「概念としての自己」だと思います
「空」を会得すると何が起きるのか?
言葉を離れると世界はつながり出す
さて、話しを「空」に戻して、「空」を会得すると、どんな境地になるのか?について書いてみます。
これは「すべてはつながっている」ことになります。
さきほど、わたしたちは「言葉」によって、ものごとを理解しいてると書きました。
それは、べつの言い方をすれば「言葉によって世界を分けて認識している」ことになります。
例えば、この本の例を見ると、「川」はどこから川でどこまで川か分からない。
国も、領土という概念があるだけで、大陸で繋がっているし、海で離れていても、海底では繋がっている。
富士山だって、どこからどこまでが富士山だと言えない。
わたしたちは体の要素も、出たり入ったしていて、世界と繋がっている。
つまり、言葉の世界から離れて世界を認識できるようになると、世界や宇宙は実は一つであり、私たちはそれと一体である実感が湧くのだと思います。
そして、それが分かると「どんな小さな日常の一コマでも、宇宙を感じることができる」境地にたどり着けます。
それが龍樹の言う「究極の真理」です。
例えば、日没を見て感動するとか、海を眺めると落ち着くとかも、心の底で空(言葉で表せない何か)を感じているからだと思います。
悩みはどう解決されるのか?
すべての悩みは“成立しない”
しかし「でも悩みにはどう対応したらいいの?さっき、どう生きればよいのか?を教えてくれるのが、東洋哲学ではなかったの!?」と怒られそうです。
もちろんそれに対しても、この本はちゃんと書いています。
それは、「空の哲学ではすべての悩みは成立しない」ということです。
結局、私たちは「概念としての自分」との向き合い方で悩んでいるわけです。
例えば「お金がないから」から悩んでいるのではなく、「貧乏」という社会的な通念に悩む。
「これだけのお金があるのが人生だ」という概念があり、それが満たされない自分は「不幸」だと思い込む。
それの問題は「お金との関係」ではなく「自分との関係」です。
「嫌いな人がいる」場合は、「嫌いな人との関係」に問題があるのではなく「自分との関係」に問題があります。
(嫌いな人に「自分」を投影しているのはよくある話です。)
これらは、すべて「自分へのこだわり」が元になっています。つまり「自分は○○だ」という自己概念です。
「自分は○○だから価値がない」「才能がないから○○できない」というのもありがちな自己概念です。
こうやって、私たちは言葉によって論理を組み立てて勝手に悩んでいるわけです。
言葉はフィクションですから、そのフィクションの世界を出て「空」の世界を感じること。
「空」の世界ではすべては繋がっているので、「縁起」によって私たちはそう思わされているだけ。
「価値がある」「価値がない」「才能がある」「才能がない「お金がある」「お金がない」も
「縁」でどんどん変わっていく。
だから自分の「変わらない本質」はそもそも存在しないわけです。
自分が流動的なんだから悩みも流動的です。今日、悩んでいたことが明日は変わるかもしれない。
そういった柔軟な心が必要です。ACTではそれを「心理的柔軟性」と呼んでいます。
流動的でなく、固定的になるのは「概念」や「執着」が強すぎるからです。
心理学的には、「○○だから自分には価値がある。」と思うのは、条件付きの自己肯定です。
でも、「○○だから」という意味には、必ず「○○でなかったら」という裏の意味がついてまわります。
コインの裏表のようなものです。
空はその概念自体がない世界なので、意味や条件がありません。ただ、宇宙の一部だというだけでいいんだという感覚です。
これは無条件に自分を認められる感覚で、これを「自己肯定感」といいます。
龍樹の結論
「そもそもすべての悩みは成立しない。だから、あなたは絶対に大丈夫。」
これが龍樹の「空」の哲学です。
おわりに
一回で書くつもりでしたが、思ったより長くなったため今回はここまでにします。
次回は、
- 老子と荘子
- 達磨
- 親鸞
- 空海
このあたりの哲学を紹介したいと思います。
興味があれば、ぜひ本書も読んでみてください。
まとめ
- 『自分とかないから』は東洋哲学を“現代の悩みを軽くする形”で解説した一冊。
- ブッダの「無我」、龍樹の「空」はACTの概念(観察する自己・脱フュージョン・自己概念)と深くつながっている。
- 私たちの悩みは「言葉で作ったフィクション(概念としての自己)」への執着から生まれる。
- 言葉の世界から一歩離れ“流動的な自分”に気づくと、悩みは固まらずに流れていく。
- 空の理解は無条件の自己肯定感につながり、「絶対に大丈夫」という感覚を育ててくれる。

